よく似た人
2010年12月05日
- 長谷川四郎著、『よく似た人』が世に出たのは、彼が学生の頃だった。大学の講義の中で紹介されたのだったろうか。おもしろい小説だった。今は手元にないのが残念である。長谷川四郎氏は陸軍中野学校を卒業していた。諜報部員として着任し、その後、故郷に帰って、半農晴耕雨読の生活だった。彼は東京に出てこないかと何度も誘われた。しかし、故郷を離れることはなかった。『知恵の悲しみ』という作品がある。その頃、杉浦民平氏もいた。彼の読書量は半端ではなかった。石原吉郎氏もいた。彼にはシベリア抑留があった。瀬島龍三氏もいた。彼が復員して、就職面接で何を言ったのだったか。戦後日本を切り開いた精神が、いつの間にか見失われてはいないか。テレビ及び芸能界の罪である。niftyにしても、日立にしても、パナソニックも、各企業、大反省の頃である。何か大切なものを見失ってはいないか。世のメディアに言う。馬鹿になることが幸せではない。あらゆるミュージシャンは、精神があまりにも低劣ではないか。それで成功とは言わせない。黄泉にて裁く。本来日本はこのような国ではない。何を大きなことを言っているのか。一切の不安のないことを以って幸せである。暴走族的悪魔のささやきなど聞きたくはない。
- そしてゴールはある。低いレベルで、何時までも、それは通らない。あなた方は知らなかった。これより、成敗がある。あなた方の勝手が過ぎた。これよりあなた方の勝手は通らない。御成敗式目あるいは武家諸法度もそうだった。世の中はデフレとなった。スタグフレーションとかあらゆるインフレの段階は終わった。デフレは人類始まって以来初めての経験である。お金はあってもモノが売れない。誰もがどうして良いのかわからなくなっている。時代はシフトしたのである、子どもたちはむしろしたたかである。大人たちより長く生きてゆかねばならない。世の日教組的教師及び自己利益的(不倫及び離婚を含む)大人たちの自分のためにする社会的失敗があった。謙虚にその事実を認めるしかない。何時までもこれまでの方法論は一切通らない。子どもたちは彼に言う。がんばってね。応援しているよ。
- 教師が教師ぶれば、教師ぶるほどおかしくなる。法華経にあるのは、ただ年を取ればそれだけでよいというのではないということである。子どもたちに受け入れられないのはなぜか。よく考えるが良い。教師と生徒は対等で良い。教えるべきことは一日の長としてある。しかし、存在において、それ以上ではない。あらゆる大人の反省するべきはそれである。政財界及び官界並びに知識階層及びセレブも、考え方の基盤においてその例外ではない。何を以って思い上がったか。彼は言う。かつては公地公民もあった。分を超えんとして超えることが出来ないと喝破したのは、小林秀雄氏も晩年に至ってからのことだった。各々、勝手が過ぎた。これより本来日本を取り戻す。時は決した。ショパンもリストも革命家だった。ミケランジェリは大脱走をしている。シューマンがいた。『クレオパトラの夢』があった。ヘルダーリンがいた。キリストの磔もあった。彼らの魂は不滅である。そして今、新しい時代が開かれる時節となった。