仏の智慧と生き方Ⅰ
黎明書房刊福田正治編著『新修・現代訳仏教聖典』より
仏の修行の初めの四つの大誓願
1 | 誓ってすべての人々を救おう |
2 | 誓ってすべての煩悩を断とう |
3 | 誓ってすべての法(ことわり)を学ぼう |
4 | 誓ってこの上ない覚(さとり)を得よう |
仏が仏となろうとして修めた生き方とその功徳で願ったこと
身 | 殺生の罪からはなれる | 人々の長寿 |
盗みの罪からはなれる | 人々が求めるものを得られること | |
婬らな行いからはなれる | 人々の心に害(そこない)の思いなく身に飢えの渇きがないこと | |
口 | 妄(いつわり)からはなれる | 人々の声が乱れず澄んでいること |
二枚舌からはなれる | 人々が常に和合してたがいに真実を談(かた)らうこと | |
悪口からはなれる | 人々の心が敵対せず騒ぐことがないこと | |
無駄口からはなれる | 人々にいろいろ余分な苦しみがないこと | |
意 | 貪(むさぼり)をはなれる | 人々の心がさっぱりとしてさわやかであること |
瞋(いかり)をはなれる | 人々の心に慈しみの思いがあふれること | |
痴(おろか)をはなれる | 人々の心に因果を無視する邪見がないこと |
- 心が濁ると行いがけがれ、行いがけがれると、苦しみを避けることができない。それゆえに、心をきよめ、行いをつつしむことが道の要領(かなめ)である。
- 姿や形は仏ではない。仏は覚(さとり)そのものである。世にすぐれた仏のみ相(すがた)を拝んで、仏を見まつったというならば、それは無智の眼の過ちである。
- 仏には相(すがた)ましまさぬ。けれどもまた、思いのままに、妙なる相(すがた)をしめされる。それゆえに、はっきりと見て、しかもその相(すがた)に執(とら)われることがなければ、この人は、自由の力を得て、仏を見まつったものといえる。
- 仏は常にここに生きているけれども、かえって神力をもって、さかさごとに狂うている人々には、近くにいても見えないようにされている。
- もろもろの人々はその本性を失うて、仏の智慧を信じないけれども、仏の智慧は広大であって、だれもかれもがつぎつぎに得度(おすくい)をこうむるであろう。
- 仏の修行の根本(もと)が、誓願であることは、そのまま仏の出現が人々を救う大慈悲の実現である。