普賢菩薩の陀羅尼


阿檀地

  • 「無我」。自己一身の利害得失を離れて一切大衆を救うために、苦を抜き、道跡に入れる。そして安楽にすることに力を尽くす。その心となったことをいう。


檀陀婆地

  • 「除我」。自己一身のことは後にして、一切大衆のことを考える。

檀陀婆帝

  • 「方便」。自己のことを考えることを離れて初めて一切大衆を救うにはどうするべきか考えるようになる。


檀陀鳩?隷

  • 「仁和」。仁は、己を捨てて、他の幸せを考える。和は、仁がもととなって人と和す。


檀陀修陀隷

  • 「甚だ柔軟」。真実の教えを広めていくには、心の柔軟を要する。何があってもすべてゆるし、忍耐する。柔軟とは、自分の立場、行きがかりを捨てるをいう。


修陀隷

  • 「甚だ柔弱」。柔軟は心の方をいい、柔弱はその心が行いに現れたものである。自分のわがままを押し通すことなく、他の人を先にして、他の人を先に幸せにすることに努めるをいう。自未得先度他。


修陀羅婆底

  • 「苟見」。片側が見えるということ。修行努力することで仏の想いの片側が見える(隻手の音)。もう一つの片側は、仏の真実の教えを信じて実行することであることを確知する。


仏駄波羶禰

  • 「諸佛回」。諸仏が智慧を磨いて覚りを開き、その結果を衆生に惜しみなく譲り与える。覚るべきは大宇宙及び大自然の法則だった。覚るとは智りであり、それは矢としての言葉が口から発して的に当たる。正鵠を射る。また、言葉は刃であり、人を殺すこともできる。さらに、自分の発した矢としての言葉はいつか自分に帰って来る。自業自得となる。どのような言葉を発するのであったか。あまりにも無用意ではなかったか。野蛮な言葉を発していなかったか。あらゆるセレブ及び支配階級が大反省の頃となった。


薩婆陀羅尼阿婆多尼

  • 「諸総持廻」。廻は他に感化が及ぶこと。総持は悪から善に変わること。善を持(たも)つ想いは必ず周囲に感化を与えて、周囲のために大きな力となる。


薩婆婆沙阿婆多尼

  • 「大衆に行じて説く」。大勢の人の中で善い行いに励み、大衆を感心させてから教えを説く。


脩阿婆多尼

  • 「皆回転す」。善を実行すれば、回り回って、他の人にも感化を与え、利益を与えて行く。


僧伽婆履叉尼

  • 「尽く集会す」。自分が信じている教えが絶対の真実であり、必ず多宝仏の証明があることを信じるに至って、他の教えを説く如何なる者も結局尽く是の教えに集まり、是の教えに統一されるに違いないという確信を持つに至る。即ち仏一乗、一天四海皆帰妙法。


僧伽涅伽陀尼

  • 「衆趣を除く」。衆趣とは種々の悪世界をいう。即ち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅。凡夫は迷いの心を以って六趣に輪廻する。仏の真実の教えを、自分もし人にもさせてあげること(菩薩道)でそれより逃れることができる。自分も救われ、人も救われる。即ち、六道輪廻を離れて解脱涅槃の仏の境界に至ることができる。


阿僧祇

  • 「無数」。一人が原点となって、正しい信仰を積み、正しい行いをすれば、それが次第に他に感化を及ぼすこと無数である。数限りない人に利益を与える。これを信じて信仰を続けることをいう。


僧伽婆伽地

  • 「諸説を計す」。仏の真実の説は、自分を仏にするためであると信じて努力し、実行していくことをいう。


帝隷阿惰僧伽兜略阿羅帝波羅帝

  • 「三世の数等し」。数の字は履むという意。即ち、過去・現在・未来において、人間の履む道は等しい。これは、三世に出現する諸佛の道は同じであり、仏の道は絶対である。仏法は必ず勝つ。


薩婆僧伽三摩地伽蘭地

  • 「有為を超える」。色は匂へど散りぬるを我が世誰そ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず。有為とは、自己優先の思想。自分だけがよければよいとする。大企業及び世のセレブの思想にそれがあった。即ち、悪である。善とは自分もよければ人もよい。有為を捨てて、自分もよいし他人もよいという善の思想こそ本来日本の培ってきたものだった。明治の頃よりそれが失われ、今も同じ階級の支配である。故に、これほどまでに世は腐敗した。取り戻すべきは何か、明らかである。善の思想を得て初めて人を教化することができる。


薩婆達磨脩波利刹帝

  • 「諸法を学す」。諸法とは、あらゆる事柄。仏の真実の教えを世に広める者は、日々に現れる一切の事物を研究し、検証して、これを理解しなければならない。


薩婆薩?楼駄?舎略阿?伽地

  • 「来世の音を暁る」。大勢の人の声を聞いて、その声の意味を覚り、一一これに適切な教えを与える。


辛阿毘吉利地帝

  • 「師子娯楽」。獅子は百獣の王で、最も優れたものである。狩をする時は、全身全霊を傾ける。仏の真実の教えは、最も優れたものである。最勝の教えに回り逢い、それを信じ得るに至ったことを師子共に喜ぶをいう。