幸せとは何だったのか
2011年01月10日
- 幸せとは何だったのか。求めていたのはそれだった。幸福論はいくつもあった。アランとかヒルティとか。彼らは何を伝えていたのだったか。これより明らかになる。時は決した。新しい時代である。汝自身を知れ。それはそのまま禅のテーマだった。どのようにして至るのだったか。その要件は何か。道元禅師は言う。「花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。昔より法の潤いなきを恨みよ」。どういうことだったのか。
- 時は決した。いつかその時が来る。それも過去からの約束だった。時代の謎は解かれた。本来日本、見事に蘇る。彼は言う。アメリカがヒロシマを見つけたのは正しかった。しかし、頼朝は伊豆に流されていた。
- 行きはよいよい、帰りは怖い。それぞれ、処したる人生がある。言い逃れは無い。何が真実だったのか。神仏は実在する。知らないことを以って勝手が過ぎた。時を要する。属性を要する。自覚を要する。あらゆる試練がある。そして目覚める。その時、何が起きるのか。彼は確かに何かをつかんでいる。それって何だろうね。本来日本、見事に蘇る。時は決した。これより始まる。
- ところで昨日、ラジオでユーミンが語っていた。「何かを発信し続けることが大切です。コンテンツはなくならないのだから」。それが生きているということだった。『生きる力』とはそれだった。学校教育で教えるべきはこれである。すなわち存在=『自由』である。支配のための強制的集団生活(隷属)が教育ではない。教えるべきは、すべて自発的参加(自律)である。そして主体的に協力して個々の課題としての儀式等を行事として成就する。社会で生きていくための力である。それが自由だった。そして社会の中で成功=自己実現する力を培う。社会的人格の形成は学校教育なくしてありえない。
- 成功とは社会に認められることだった。自信を失って引きこもる時間があって良い。そのままでは生きていけなくなっている。新しい自分を発見して、新たな自分を生き始めるために必要な時間である。社会はあなたの復帰を待っている。それが「諦めないでね」ということだった。いつでもやり直しは出来る。失ったものは取り戻せる。どのような悲しみの中にも必ずそれと同等かそれ以上の喜びの種がある(代償の法則)。アメリカの祈りとしての自由は、①子どもの頃、どんなに貧しくても何時までも貧しいのではない、②子どもの頃、どんなに教育を受けられなかったとしても、何時でも教育を受けることが出来るということだった。私たちは常に成長している。自由の方へ。幸せの方へ。
- 再び自分を見つけたら、猪突猛進だよ。結果は必ずついて来る。実行しなければ結果は無い。社会は結果しか評価しない。失敗しても良い。失敗からしか学べないことがある。社会はそれを知っている。そしてそれより這い上がるあなたをあたたかくエールを贈りながら待っている。見つめている。社会はそのように出来ている。どのような大富豪も必ず一度や二度は大失敗(倒産・破産)している。
- 情報は発信したところに集まる。そして情報は価値があるものでなければ意味は無い。何を以って価値とするべきか。例えば、民のために天下国家を語るを以ってする。あまりにも低劣な精神の時代がしばらくあった。反省の頃である。同じ轍を踏まないことを以って反省とする。世界は野蛮と愚かさを好まない。誰もが幸せになって良い。私たちは幸せになるために生れた。
- 豊かな時代です。心身ともに健康で生き抜こう。死んだら終わりだよ。お金は儲ければ良い。いくら儲けても良い。そして幸せになろうね。一切愚痴は言わないが良い。何故だろうね。潜在意識に主語は関係ない。述語を実現しようとする。本音を実現しようとする。だから私たちはなりたい自分になっている。親ではない。学校ではない。社会でもない。時代でもない。すべて、自分である。
- 観念がやがて現実化する。何をイメージしますか。やがてそれはあなたの現実となります。すべて自分次第だったのです。自分が変わることで世界が変わります。そのようにして幸せになるのです。そうしたことが明らかとなりました。そして新しい時代のパラダイムとなりました。このようにして進化します。
- 新しい時代が始まりました。これまでの方法論は陳腐化しました。不安がっている人がいます。目が輝いている人がいます。あなたはどちらですか。大人とは自由を自覚し、幸せを確信している存在です。幸せになりましょうね。