黄金の橋

2013年10月30日

  • ある刑法の教科書に書いてあったのは、引き返すべき黄金の橋は常に架けられているということだった。せっかく橋まで導いても、引き返すことができない子供たちがいる。その橋を引き返すことなく渡りきる。どうなるのだろうね。悲しいね。それがあはれだった。馬を水辺に導く。水を飲むかどうかは馬次第である。如何ともしがたいものがある。人間社会である。サンクションがある。学校教育で今教えるべき最優先課題はそれだろうね。背景に何があっても、自らの幸不幸は自らの責任である。それを示し、教えることができない学校教育現場の苦悩がある。テレビ界の風潮によって惑わされ、勘違いしている親の教育も必要なのだろうか。少なくとも国会でもこうしたテーマでの議論はないね。右傾化を急いでいる。だれの利益のためだろうね。国民全体のための利益ではない。自らの利益のために自然を破壊しても顧みることのない一部の階層の利益のためでしかない。彼がどの階層に属し、何を考えているか重要な要素だった。何故だろうね。祖先の総体としての黄泉が見ている。日月照らし風が吹く。

 

子供たちの問題行動に対しては

2013年10月30日

  • 先日、子供たちの反乱と称して、反抗する子供たちを理解することを以て擁護する内容を書いたのだけれど、だからといって理不尽な問題行動を野放しにするのではない。結果が重大であれば、サンクションを伴うのは当然である。違法性とは、例えば刑法が予定している保護法益を侵害することである。違法性が認識されれば処罰される。反抗する子供たちにはそれを認識させる必要があるだろう。故に今、学校教育においては教育と福祉及び司法との連携が必須となっているのだろう。かつて学校は学校だけで解決することもできた。今は諸般の事情でそうもいかなくなっている。学校は教育の専門機関であり、福祉及び司法はそれぞれ別の専門機関である。学校内で今、何が起こっているのであるか。保護者及び地域との関係を含めて開示する必要もあるのだろう。開かれた学校として再出発する必要がある。子供たちの教育は学校だけでは難しくなっている。いじめも突然隆起する。教師がターゲットとなることもある。ターゲットなった教師が孤立無援となり、精神的に追い込まれることがある。学校は今、万能ではない。しかし、教育の最前線である。学校はもはや限界を認め、他の専門機関との連携に積極的になるべきである。他の専門機関は、最前線としての学校の苦悩に心を開き協力的に連携を図るべきであろう。行政の縦割り的観点で責任回避していては職務怠慢である。そのようなことも言っている暇はないほど、学校教育現場は大変な状況になっているところもある。ところで学校教育を破壊したのは、バライエティとしてのテレビ界及びお笑い芸能界であると断言する。壊した者が償う。ローマ法以来の大原則である。

 

子供たちの反乱

2013年10月29日

  • 子供たちが教師の言葉に反抗する。何を言っても気に入らない。どうしてだろうね。子供たちの悲しみの表現である。それに気づく必要がある。多くの子供たちが学習障害になっている。いつか教師の意識において切り捨てられている。子供たちはそれを訴えているのである。個々の言葉ではない。それまでの仕打ちに対して反抗している。もっと、面倒を見てほしいのである。もっと自分を存在として認めてほしいのである。ここからメンテしなければ子供たちは永遠に反抗する。条件が調えば子供たちはすくすく育つ。教師の言うことを聞く。新しい時代に適応していく。既存のあらゆるパラダイムが崩壊した。それは教師の教育理念の中にある「よい子」を含む。「よい子」とは大人の産業社会にとって都合のいい子に過ぎなかった。切り捨てられて未来に夢が持てない子供たちが人間としての尊厳と平等を訴えている。それが子供たちの反乱である。追い込んだのは私たち大人社会である。子供たちは愛を見失った時代の犠牲者である。存在を主張して反乱しているだけである。彼らも人間である。人間として当然、反抗しているだけである。理解すればいい。必ず解決への道がある。