すべて光を浴びて輝く

2012年08月09日

生れて善かった。生きていて善かった。この世はすべてかくも美しい。いとおしい。そう思える日が来る。必ず来る。誰にも来る。そして、何もかもが祝福となる。それが仏の約束だった。それは伝えられていたのである。すべて自分次第だった。般若心経のギャーティとして。禅語に曰く、「至りえて帰り来たれば別事なし」。あるいは、「衆生本来仏なり」。此処に至って瞬時に、すべて光を浴びて輝く。
 

頂門の縦眼

2012年08月09日

「人間は考える葦である。その葦を通して宇宙を観る」(パスカル)。考えることが人間の人間たる所以だった。その時、神の七つの力が賦与されている。どこで考えるのだろうか。大脳皮質前頭葉。その時、偉大な力となる。頂門の縦眼が輝き始める。考えるとはそういうことだった。正鵠を射る。即ち真実を射抜く。真実とは何だったのか。神仏の実在とその邂逅だった。私たちは知らないことを以って否定することはできない。眼光紙背に徹する。あるいは行間を読む。勉学こそ考える力の涵養である。学校での勉学が社会に出て役に立たないなどと決して言えない。腐敗堕落が人生ではない。前世がある。後世がある。この世は過去からの魂の遍歴の一こまであり、夢の実現過程である。何を実現するのであるか。未来に対して責任がある。ゴールは何だったのか。真実だった。そして真実に安住する。その時、大自然が祝福受容する。それが幸せだった。美しい風景が待っている。好ましい人間関係が訪れる。すなわち神仏と邂逅するのである。広重もそうだった。芭蕉もそうだった。かつて四聖が既に見つけていたのはそれだった。私たちは万物の霊長として人間に進化した。だれもが幸せとなる時節を迎えた。それが、21世紀の約束だった。