心が晴れてチャンスがある

2010-01-10

お元気ですか。いろいろなことがありました。多くの失敗もありました。身から出た錆です。甘受するしかないですね。

さて、第三の波『情報化』から、第四の波『創造化』がいわれています。創造化は情報化を前提にしています。明らかに時代が変わりましたね。この時代を如何に生き抜くか、重要な課題です。

善とか悪とかいわれます。確かにそれはあるようです。インド哲学の観点からすると、見える世界である物質世界には生来の三つの性質があって、サットワ、ラジャス、タマスに分類されています。それぞれ、幸せ、利益、堕落を導きます。しかしこれらの上に見えない世界があります。見える世界は、実は見えない世界の幻影に過ぎない。実体ではないのです。実体はむしろ見えない世界だった。

見える世界は相に過ぎない。それで見える世界と見えない世界を合わせて実相といえます。私達は見えない世界を知らなかった。それはないと思っていた。これがマーヤの仕業だったのです。しかし、何時か誰もが必ずそれを知る時が来ます。最終ゴールです。私達の本体は魂であり、鮭が遡上するように旅をしています。帰るべきは何処でしょうね。身心清浄となって、神仏と一体となることでした。

しかし、感覚器官の喜びを喜びとしている限り、至れない。それで何度も生まれ変わっている。そして何時か知るのです。その意味では、前世の終わりが今世の始まりでした。私達が生命体として限りなく進化している所以です。

ところで、創造化というのは、見える世界でのことです。それは「反力」であるとインド哲学はいいます。しばらく、この時代を駆けめぐらなくてはならないですね。やがて次の波が来るのでしょう。

そして感覚器官には好悪があります。それが道元のいう、花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふるでした。しかし、そうした好ましいものにも厭わしいものにも影響されない心こそ勇気だったのかも知れません。『失われた世界』のロックストンのように。

さらに、私達は魂として永遠不滅です。随意神経と不随意神経がありますね。随意神経の休息が睡眠です。不随意神経の休息が死といえます。同じです。身体は分解して宇宙に帰ります。魂は眠りについてやがて再び身体に宿ります。そのようにして、旅をしていたのです。

一切の感覚器官に惑わされないことが、解脱だったのです。その時、本当の自由を知るでしょう。何も怖いものはありません。生死を超えるのです。それが武士道は死ぬことと見つけたりでした。死をも厭わない。しかしスーサイドはない。来世をスーサイドから始めることになります。

さて、利益追求の時代がありました。それ故、結果を含むビジョンとかが大切かと思われました。そうでもないようです。それでは本当の満足は得られない。日々、自分の仕事を精一杯する。それで良いみたいです。

価値観の転換が必要なようですね。その意味で、経済界は罪です。利益至上主義ではなかったのです。何のために仕事をしているのでしょうね。自分のためですね。家族のためですね。会社のためです。地方のためです。國のためです。世界のためです。人類のためです。生命体のためです。今はそれで良いのでしょうね。少なくとも、自己利益追求ではなかった。

私達は誰もが幸せになるために生まれて来ました。今を大切にしましょう。私達はこの世に生まれて知性を磨き、おだやかさとやさしさへ進化しています。誰もが価値的に平等です。

そして武士階級は戦わなければならない。かつては主君のためでした。今は人類の福祉のためでしょうか。その時、大義名分もあるのでしょう。既に廃刀令があって、武器は刀ではありません。武器は今、言葉です。言葉が刃です。乙女は目で人を殺すことが出来ます。私達が今、磨くべきは言葉ですね。はじめに言葉ありきともいわれます。

そしてどのような相手に対しても、どのような境遇におかれても冷静沈着泰然として木鶏のごとく対処できるでしょうか。それが法華経のいう柔和忍辱でした。

法華経の最後にある五つの懺悔方法は武士階級が名宛人です。また、バガヴァッドギーターも戦わねばならない勇者に対して戦うことに対する不安を解決するためでした。

私達は今、戦わねばならないのです。来世の永遠至福のために。

探していたモノは見つかりました。この人生は無駄ではなかった。はじめは負けたかと見える。しかしどんな相手も必ず受容し、克服凌駕する。魔にも影響されない。本来大和の秘密です。

これで生きてゆけます。本来の自分を取り戻すことが出来ます。苦節埋没三十有余年、無駄飯は食っていなかったようです。知性の勝利です。 大きな仕事をしたのかも知れません。見えない世界とつながる秘密の通信機の開発に成功したのでしょうか。既に経験事実であると彼はいっています。

親鸞はいいます。善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。佛は我愚禿親鸞一人のために法を説く。ここを法華経は、佛、佛とのみ究了したまうといいます。維摩居士はいいます。衆生病む、故に我病む。鈴木大拙氏はいいます。泥棒もいるから面白い。

この世はどのように出来ていたのでしょうか。それをテーマとして取り組む人生もあります。一連の体験的研究は未来への確かな道標となりました。誰も知らない。知らないことを以て否定したのです。あるいは粗末愚弄し、貶めた。むしろ何時までも刃向かったのでした。

そしてそれらの価値を笑いものにした。お笑い芸能界及びテレビ界がその権化だった。知識階級もそれに迎合した。政治学上、民主主義は衆愚化する。それに彼は耐えた。自分こそ最終最後最大の敵だった。その正体を見つけ出し、それを打ち負かすまで彼のこの世の人生はなかったのでした。

しかし、彼の人生と青春は失われていました。そして彼こそ彼だったのでした。何を根拠にいうのでしょうね。既に断片的記録があります。彼はいいます。この世の務めは果たしたよ。日本は大丈夫だよ。未来は明るい。巧妙な日本精神骨抜き占領政策は見破られた。それはカラカラ浴場だった。しばらくそれに乗じた繁栄があった。全共闘的自由は自由ではない。しかしそれが支配していた。それも終わった。

これより本来日本、見事に蘇る。美しい風景が待っている。好ましい人間関係が訪れる。心が晴れてチャンスがある。どんな時代にも。

そして歴史は大河のごとく流れ、新しい時代となりました。これより未来を私達みんなで作っていきましょうね。それが創造化です。これまでの方法論は一切通りません。新しい考え方が必要です。その基準は何だったのでしょうか。私達生命体としての進化傾向があります。それが明らかとなったのではないでしょうか。

夢は実現します。私達人類としての夢は何だったのでしょうね。一部の階級がお金で庶民を餌食にし、支配するギャンブル的な成功哲学だったのでしょうか。それとも本来日本が培っていたものでしょうか。これを見つめ直し、議論することから始めませんか。

民のためにする時、神風も吹きます。これが大義名分であり、それは祖先の総体の受容祝福守護でした。それが征夷大将軍の要件だったのです。本来神国日本の本当の意味が解明されました。それを知らない低いレベルの解釈がありました。そして私達は彷徨っていたのです。何が真実かわからなかったのです。何を信じて良いのかもわからなかったのでした。

目的は一つです。それを定めて、新しいステージです。そして始めましょう。私達は幸せになるために生まれてきました。どんな障害も克服することが出来ます。私達にその力は賦与されていたのです。

目覚める頃となりました。迷いを払拭して誰もが輝く頃となりました。これまでのタレントは輝きを失いました。漱石はいいます。精神的向上心のない奴は馬鹿だ。

様々な考古学的発見があります。それも偶然ではありません。見えない世界からのサインだったのです。私達は知らなかったのです。

知らずにあるものをないと思い、ないものをあると思っていたのです。それがマーヤの仕業すなわち無知ということでした。あらゆる三蔵法師は天竺に由来しています。ここに今、彼が発掘し、確認したのはそれだったのでしょうか。

日本古来の精神を庶民レベルで使用する時が訪れました。そして彼はいいます。国旗掲揚、君が代斉唱の意味するところです。すなわち、確かな日本を未来に伝えよ。