大円鏡智

2010-01-27

人を見て法を説けといわれる。どういうことだったのだろう。すべて顔に書いてある。何が書いてあったのだろうか。引力としての普遍の愛がある。反力としての創造力がある。この世には神仏が実在する。この世には悪魔がいる。真実とは神仏との邂逅と祝福だった。

それはある。しかし、ないと思っている。それが人間だった。それを小林秀雄氏が、己の分際を超えんとして超えることが出来ないと書いたのは、『本居宣長』を書く頃になってからだった。その頃、氏は推敲なくして文章が書けるようになっていた。

至道無難唯嫌揀択といわれる。揀択とは人間の計らいだった。すなわち考えること、思うことだった。人間は、科学にしても思想にしても、自分が考えていると思う。そうでもなかった。インド哲学の考えでは、心が宇宙磁化して二極性を持つ。そして善悪となる。あるいは普遍の愛に近づこうとする。あるいは普遍の愛から遠ざかろうとする。

反力として働くのが創造力だった。すなわち見える世界を創る。それが揀択だった。この世を創るのは観念だった。誰の観念だったのか。人間の観念であるか。神仏の観念であるか。それとも、悪魔の観念であるか。

ある本を読んでいると、宇宙の中心に神がいて、白い光を発している。その光が人間の心を照らしている。ところが人間の心が波立って乱れていると、それは反射されて届かない。人間の心が鏡のようにおだやかであれば、それは届く。禅にいう大円鏡智とはこれだったか。

そして人間を惑わせるのが魔の仕業だった。人間の心に何が宿っていたか。それが問題だった。人を見て法を説く。すべて顔に書いてある。言葉がわからないものに何をいってもわからない。

詩は詩人を以て呈すべし。これに気づいて、魂は晴れやかとなる。天晴れとなる。それが廓然無聖だった。大自然が証明していることに気づく。

剣は剣客を以て呈すべし。剣とは今、刀ではない。言葉である。それは光であり、ロゴスだった。はじめに言葉ありきとするところである。

もう、いいね。長い旅だったね。月の砂漠だったね。アンドリュー・カーネギー氏はいっていた。最も大切なのは、感情のコントロールであると。

人間的なものを追求しているということはどういうことだったのだろう。

思考は現実化する。どのレベルの思考だったのだろうね。神仏の愛だったのか。魔の物質的な愛だったのか。

気づいたね。これでいつも笑顔でいることが出来るね。魂は滅し給わず。何があっても大丈夫だね。心が澄み渡れば、月の姿が見える。あなたの心に何が宿っていたか。誰も悪くない。悪いのは何だったのだろうね。

あなたは幸せになるために生まれてきた。何が本当の幸せだったのだろう。そしてどのようにしてそれを得ることが出来るのか。それを拒んでいたのは何だったのか。考えるべき時が来たんだね。人類として。あるいは生命体として。

私達は生かされている。その意味も明らかとなったね。知ることが大切である。知らないことを以て否定する。人間の悲しい性だった。あるいは都合が悪い。認めたくない。見えない世界はある。あるのにないと思う。

生命体として進化している。何処へ赴くのだったか。愚かさではなかった。これで達観することもできるね。あなたこそあなただった。あなたは埋没した。今のあなたを誰も知らない。私達は知っている。ありがとう。

あなたは見つけてくれたんだね。私達のために。そして日本は大丈夫だよという。私達は浮かれていた。仕事の名を以て、安易な人生を歩んでいた。あなたは人生も青春も賭していたという。

あらゆる仏法は天竺に由来する。それは何だったのか。あなたは何を求めていたのだろう。それがこの世に生まれた使命だったという。二度と同じ轍は踏まない。

あなたの人生は何だったのか。何を見たのだろうね。そして何を確信したのだろう。あるいは何を引き受けたのだろうね。誰も知らない。知らずに貶めた。あなたこそあなただった。子供の頃からね。

そして誰もが何時か必ず真実を知る日が来るという。しかし、この世での事ではないのかも知れないね。天国はある。地獄もある。自分次第だった。

最終最後最大の敵は自分だった。仮想敵国ではない。21世紀の戦いは己の魔との戦闘である。それも根絶やしではない。本来日本は滅し給わず。原爆の火を以てしても根絶やしはない。さて、魔をも味方にする。それは出来るだろうか。出来ると彼はいっていた。