やはり仏法だった
2010.02.06
人生って何だったのでしょうね。私達は何故生まれていたのでしょうか。何時か知るのです。そのために生まれていました。
永い旅をしているのです。その意味で、夢の途中です。何を知るのでしょうね。真実です。何が真実だったのでしょうか。それも知るまではわかりません。
私達は、何を求めて生まれていたのでしょうか。檜もある。翌檜もある。朝顔もあって、夕顔もある。すべて真実です。智者がいる。凡夫がいる。それでいいのです。何もかも一切、それでいいというのです。
これがわからなかったのでした。これを探していたのです。そしてそれはあるのでした。いつか辿りつくのです。その時が来ます。希有なることかも知れません。しかし、そのために生まれていました。
ゆるすとか、ゆるされるとかでもない。そうした真実があります。それが仏法でした。やはり、仏法だったのです。
この世の幸せはすべて、仮の幸せです。本当の幸せがあります。それは知にも属せず、不知にも属せずといわれます。あるいは知れば迷い、知らねば迷うともいわれます。
愛とか自由とかいいますね。それも仮の愛であり、自由だったのです。
本当の愛とは何だったのでしょうか。本当の自由とは何だったのでしょうね。それを探していたのです。そしていつか知る時が来ます。それは試練を要します。
世間の愛は、愛ではなかった。世間の自由は自由ではなかった。本当に、そのように思える時が来ます。
そして本当の仏法って、何だったのでしょうか。己の分際を超えんとして超えることが出来ないと晩年の小林秀雄氏はいいました。超える必要はなかったのです。
お金は物質世界の価値です。それはむしろ普遍の愛に対して反力として機能し、不幸へ導きます。
見えない世界の価値は何だったのでしょうね。本来日本はそれを知っていました。いつか忘れてしまいましたね。
ペリー来航以降のことでした。西洋物質文明に日本も飲み込まれていました。
しかし、本来日本は知っていたのです。思い出せばいいですね。大乗仏教は今、日本にしかありません。
廃仏毀釈は何だったのでしょうね。それが西洋化であり、文明開化でした。取り戻すも取り戻さないもないのです。私達のDNAにはその記憶があります。それが仏法でした。本来の私達の中にあるものが仏法だったのです。
だから、悲しい映画には涙を流します。しかしそれぞれレベルがあるのです。それも前世からの因縁でした。
ところで民主主義は衆愚化します。そして多数決です。どういうことになりますか。未来に遺したいものがありますね。
あまりにも物質的すぎたのではないですか。バランスを崩していると思いませんか。胸に手を当てれば、思い出しますね。それを大切にしましょうね。
流行作家の本の中には読めないものがあります。何故でしょうね。文体の問題があります。漫画もそうです。そのデッサンが不安要素となるものがあります。
そうしたものに価値がありますか。しかし、読みたくないのであれば読まなければいいのです。それは吉田健一氏もいっていました。そしてとやかくいう必要もありませんね。
しかし今、自由の行きすぎで、テレビ界を中心にお笑いバラエティなど、その内容は受忍限度を超えているのかも知れません。おおらかな日本としても。
ところで、本当の価値って、何でしょうね。何か今、間違っていると思いませんか。あるいはあまりにもモンスター化して、制御できなくなったのでしょうか。
上品、中品、下品は、昔からいわれています。それでいいのです。それがわからなかった。それを確認しなければならなかった。戦後は殊に難しかった。
しかし、時代は巡ります。その時が来ました。何もかもおかしくなっていませんか。何故でしょうね。
自分のためにしすぎたのです。取り戻しませんか。本来日本を。
その時が来たと思いませんか。私達は、幸せになるために生まれてきました。今のあなたで良いのです。松もあれば櫻もあり、椿もあります。それぞれ、それで良いのです。
貴賤はありません。しかし配慮が欠けていました。それが野蛮でした。私達は何か大切なものを忘れていたのです。黄泉の淘汰があります。救いはあります。