悩み続けている君へ1

2017/05/07

  
私もかつてずいぶんと悩んだものでした。仕事は、塾の講師を24年しました。その後、パソコン関係の仕事をしていました。今は、学校で非常勤の仕事、生徒指導員をしています。毎月の所得は今、とても低いです。悩んで、本ばかり読んでいました。
あるところで、仏道の修行を12年、させてもらいました。悩んでいたからでした。とても不思議な自然現象に随分と出会いました。そしてこの世がどういうことだったのかを垣間見たように思います。
子供の頃はずいぶんと勉強もしていました。しかし高校生の頃、ほとんどしなくなりました。それから私の人生は、奈落の底に落ちたのでした。就職も出来ない、結婚も出来ないままでした。
しかし、いつか気づくのでした。あくせくしても仕方ないのでした。なぜ、この世の中、悩まなければならなかったのでしょうね。そのカラクリが見つかったのです。このカラクリに気づいて、この世での新しい人生が始まります。私たちは、そのために生まれていたのでした。
インターネットの普及で、時代は猛スピードで変化しています。既存の仕事がほとんどなくなり、生活スタイルも新しくなります。情報があふれていて、どれが真実であるのかわからなくなっています。何かを探して生きているのですが、何が真実であるのかわからない時代です。仏法ではこうした時代を末法と呼び、いつかそういうことになるのでした。
私たちはこれから、どう生きたら良いのでしょうか。誰もがそれを探しています。本当の幸せになるためにどうしたらいいのでしょうね。本当の幸せとは何だったのでしょうか。それを誰もが探しています。それぞれの人生です。それぞれの生き方です。結果についてはどうしようもないところもあります。自分なりに答えを見つけていくしかありません。
それは、自分探しでした。自分を見つける旅だったのです。私たちは生命体として、その旅が始まっていました。それは、この世限りのことではありませんでした。代々、私たちは幸せを探して、旅をしていたのです。
恐竜は恐竜で幸せを探していました。そして草食恐竜の時代は、ずいぶんと幸せでした。しかし、チラノザウルスが現れてどうなったでしょうね。殺戮の時代となりました。そして2億年続いた恐竜の時代も終わります。巨大な隕石が地球に激突しました。地軸は傾き、地球を覆った噴煙で太陽光が届かなくなり、氷河期となりました。寒さに耐えきれず、変温動物としての恐竜は滅亡します。その頃、ほ乳類としてのネズミが密かに生まれていました。そしてほ乳類の時代となったのでした。それから私たち人間の時代となりました。しかし、人間は太古の昔より戦いばかりして来ました。歴史はまさに、『戦争と平和』でした。日本もその例外ではありませんでした。第二次世界大戦で原爆が開発されてヒロシマとナガサキに投下されました。それで戦争は終わりました。日本は女・子供の竹槍で本土決戦をするつもりでした。そうした時代を通っています。
そして愛と自由と平和の時代となりました。時代は猛スピードで変化しています。このような世の中でどのように生きるべきか、といった問題があります。だれもがこの問題を解決して、本当の自由を手に入れたいのではないでしょうか。本当の自由を得ることが、私たちがこの世に生まれた存在理由ではなかったでしょうか。
愛と自由そして平和こそ、だれもが求めている諸価値です。しかし、それは見失われたかのようです。見失われているだけで、なくなったわけではありません。私たちはこの世に生まれて、愛と自由そして平和を求める旅をしていたのです。
始めませんか。時代がここまで進化しました。それは、始まっているのです。見つけた人から始めれば良いのです。二千年以上前に、すでに至り着いていた方々もいました。いつか誰もが至り着くのです。そうした時代となったのではないでしょうか。
幾時代かがあって今となっています。そして私たちは人間として、限りなく幸せを求めています。あるいは探しています。しかし、それが何であるのか、その解決が何処にあるのかがわからないままに、時が過ぎ去ります。このままでは何もわからずにこの人生を終わってしまうでしょう。二千数百年前に、人類としてそれを見つけていた人がいました。3大聖人と呼ばれている人たちです。今に、この人たちを超えることが出来ないままです。それでは、この人たちだけが見つけていたのかというとそうでもないのです。その後、何人もの哲学者が現れました。彼らも、見つけていたのです。現代はどうでしょうか。現代は、そうした人たちはいないのでしょうか。実は、いるのです。例えば、デール・カーネギー氏などがそうです。彼は移民として貧しい幼少時代を過ごし、その後、製鉄会社で労働者をしていました。働いていたのは製鉄会社の経営についてアイデアがありました。それを実現したのです。そして大会社を設立しました。晩年になって、彼はすべての財産を整理して、人々の幸せにつながる組織に寄付しました。彼にとって最大の夢は、彼の見つけた成功哲学を教育として形にすることでした。それを託されたのがナポレオン・ヒルでした。いずれにしても時代は今、大金持ちこそ成功者であるかのようです。
本当の成功とは何だったでしょうか。大金持ちになることも一つの形です。しかし、それだけでは本当の幸せは手に入らなかったのではないでしょうか。私たちは幸せを求めて彷徨っているのではないでしょうか。
宗教も今となっては怪しくなっています。一休禅師の時代もそうでした。時代がとても荒廃していました。一休禅師は修行して悟り、師匠から後継者としての証明書をもらいます。しかし、彼はそれを破り捨てるのです。実質的に後継者となったのですが、師匠はその夜、密かに寺を出るように言います。何があるかわからないからでした。それほど物騒な世の中でした。やはり、弟子の一人が追いかけてきます。とうとう追いつかれて、一休は座り込みます。そして師匠から後継者の証明として貰った鉄鉢を彼の目の前に置いて言うのでした。「善も悪もない、その時、あなたは何者であるか」と。真剣勝負でした。そして追いかけてきた人が、その瞬間、悟りを開くのでした。そして弟子にしてください、と一休に迫ります。一休禅師はそれを拒むのです。「あなたも私も同じ師がいるではないか」と。このようにして禅も代々、続いていくのでした。
大乗仏教は今、日本にしかありません。しかし今、真剣に仏法を信じている人がどれだけいるでしょうか。「神は死んだ」と言ったのはニーチェでした。
神も仏も信じられなくなっています。それが末法としての現代です。本当に、神も仏もいなかったのでしょうか。しかし今は、無宗教という宗教の時代であるとも言われています。
宗教というと嫌われます。何故か嫌なイメージがあります。だから言わなくていいのです。哲学というと難しそうです。わかる人にとっては、別に難しいわけではありません。いずれにしても、人々はいつか必ず、こうしたことを求めているのでした。
私たちは幸せになるために生まれています。恐竜の時代を通っています。悲しい戦争も幾つかありました。今更、同じ轍を踏まなくて良いのです。私たちは今、幸せになるために生まれています。釈迦もそうでした。キリストもそうだったでしょう。ソクラテスもデカルトもそうだったのです。人類としての最終最後、究極の目的は幸福だったのです。庶民として誰もがそれを見つける時代となったのです。だからこそ、憲法には幸福追求権が保障されています。それはあります。私たちは代々、それを探していたのです。いよいよ、それを誰もが実現する時代となりました。
世の中が怪しくなっていますね。その中で幸せを見つけることはとても困難であるのかも知れません。しばらく平和でした。そして「馬鹿になることが幸せである」かのような時代です。テレビがその権化となっています。果たして、面白ければそれで良いとする彼らは、本当に幸せでしょうか。
お金のために自分の影を売ったペーターのお話があります。いろいろな物語がありますが、その多くは、人間としての幸せの形をテーマとしています。そうでなければ、小説として、この世での存在理由がないでしょう。私たちは幸せを探しています。私たちは幸せになるために生まれていたのです。そうであるなら、幸せを探しましょう。それがビジネスとなってもいいですね。
地球温暖化、オゾン層破壊の問題があります。自然災害が頻発しています。そうした環境にあって、私たちはとても弱い存在です。パスカルは言いました。「人間は考える葦である」と。その次にさらに言うのです。「その葦を通して宇宙を見る」と。どういうことだったでしょうか。彼は大数学者でした。確率論をまとめた一人でした。しかし社交界へのデビューは30歳を過ぎてからでした。何故だったのでしょうか。彼は足が不自由でした。ある夜、彼は神秘的な大発見がありました。それは、神との邂逅でした。『メモリアル』という小さな文書にその時のことが書かれています。それから彼は大数学者から大神秘家となるのでした。そして、彼が邂逅した神について語り始めるのでした。彼に『パンセ』という著書があります。それは草稿でした。いわゆるメモです。どのように語ったら人々は神を理解するだろうかということについて考察したものでした。その中に、「人間は考える葦である、その葦を通して宇宙を見る」とあるのでした。
さて、こうしたテーマを代々、私たちは追いかけていました。そして時代が推移し、それらについて考えなくても十分に生きていけるように思えます。そうした永遠の課題はむしろ邪魔であるのかも知れません。
いつか気づくのです。気づいた人から始めましょう。本当の幸せを見つけましょう。それがテーマでした。それがビジネスとなる時代となるのでしょうか。何もかもが新しく生まれ変わろうとしています。産業も含めて、古いものは淘汰されようとしています。しかし、いつの世も、変わるモノと変わらない何か大切なモノがあります。いよいよ、誰もが変わることのない真実を求めているのではないでしょうか。私たちはそのために生まれていました。悲しい戦争もありました。そこを通って気づいたのです。私たちは幸せになるために生まれている、と。
何が幸せだったのでしょうか。それを見つけましょう。人それぞれに幸せの形は異なります。それはあるのです。それを見つけることが幸せだったのです。それを見つけてどうなるでしょうか。日月照らし、風が吹きます。神は死んだと言われています。よほど都合が悪かったのでしょう。神は存在しています。見えません。感じることが出来れば良いのです。だれもが幸せになって良いのです。自分だけが幸せになってもそれだけでは本当の幸せではないのです。誰もが幸せになって、その時、その中にいる自分も必ず幸せだったのです。
それでは、幸せとは何だったでしょうか。それはある意味で神仏との邂逅でした。宗教でもそれがテーマでした。しかし、あらゆる宗教が陳腐化しています。一休禅師の時代もそうでした。あらゆる宗教が経済活動をしています。武士は食わねど高楊枝の時代は終わっています。誰もが働かざれば食うべからずの時代です(この考え方も禅から来ていると言われています)。それらはすべて、本当の幸せを求めています。だれもが本当の幸せを掴む時代が到来したのです。
本当の幸せとはどのようなモノだったでしょうか。端的に言えば、さきほど書いた「日月照らし、風が吹く」ことがそれです。大自然が受容し、証明するのでした。それは有るのです。それでは、どうして悲しみがあるのだったでしょうか。本来それはないのです。ないのに有るのです。有るけれどないのです。ここが禅の考え方です。そうしたことは修行しなければわからない、というのがあります。確かにそうです。それを日々の生活の中で実現してもいい時代になったのです。禅も在家禅(苧坂光龍老師)の時代となっています。
時代は進化しました。だれもが幸せになって良い時代が到来したのです。だから、こうしたことがビジネスとなって良い時代です。これから、既存の仕事の60パーセント以上がなくなると言われています。ロボットが普及し、生産活動としての経済に参入するからです。既に始まっているのです。いつまでも時間を切り売りしなくて良いのです。新しい時代に、私たちは何をするべきだったでしょうか。それらを真剣に考える時代です。テーマは何だったでしょうか。私の場合は「失われた何か大切なモノを求めて」でした。それは、高校生の時に始まっていました。以来、それを探し続けていました。そして見つけたように思います。だからこうして、こうしたことを書いています。ずっとこれを探していました。その間、ボーナスを貰ったことはありません。ずっと貧しく、生活をしてきました。それは道元の言う貧学道だったのでしょうか。法華経の中にも菩薩は空の下の世界に生きている、とあります。
さて、幸せの形が見えて来ました。それは何だったでしょうか。日月照らし、風が吹くということでした。かつて宗教はそれを探していたのでした。そして時代が推移し、それをだれもが実現して良い時代となりました。すなわち、新しい時代です。生まれたからには苦悩があります。身に覚えのない不運な人生があります。それは何故だったでしょうか。それには原因があるのでした。それも明らかとなっています。それを払拭することが出来れば幸せになれるのでした。誰もが今、それはない、と思っています。故に、「神は死んだ」ということになっています。果たして、そうだったでしょうか。そうしたこともどうでもいいのでしょうか。どうでもいいと思う人はどうしようもありません。禅ではそれを「その看板をかついでそのまま生きてゆけ」とします。そういう人は、救いようがないのです。それはそれで良いのです。そうしたものです。何故、そうしたものと言えるのでしょうか。こうしたことはこの世のことだけではなかったからです。現在があり、過去があり、未来があります。過去に原因があって、現在にそれが結果として実現しています。過去に蒔いた種があるのでした。それが今、花と咲いて結実しています。そうであるなら、蒔いた種は必ず自分で刈り取らねばならないのです。困った事になる原因があるのです。そうであるなら、二度とその種を蒔かないことです。困った事は甘受するしかないのです。そしていつか困る事がなくなります。困る事の原因を払拭するからです。こうして新たに幸せの花が咲き始めます。その種を取って蒔いていけば良いのです。それをみんなで実現していけば良いのです。それがビジネスとして形となる時代です。だれもが幸せになれる時代の幕開けとなりました。これが21世紀の約束だったのです。
新しい時代のビジネスとして、「誰もが幸せになるために」にということが考えられます。これをテーマにして生きていくことで幸せを掴むのです。大自然及び大宇宙が応援してくれます。……それにしても悲しい時代がありました。それを乗り越える時代の到来したのです。あらゆる苦難と苦悩が無駄ではなかったのです。戦後日本は苦労しました。だからこそ、今の平和と繁栄があります。それらをさらに確かなモノにして未来に伝えなければならないのです。そうしたことがビジネスとなるのです。新しい時代を一緒に作っていきませんか。それが実現する時代となりました。マヤの暦も一巡しました。太陽系の惑星が一直線上に並びました。人類として戦争ばかりしていれば、巨大な隕石がいつ地球に衝突するか知れません。恐竜の時代がそうでした。大自然もますます変化して、大災害が何時起きるかわかりません。こうしたことは人類に対する警鐘だったのです。このままでは人類も滅びます。恐竜が滅んだように。しかし救いはあるのです。常にノアの箱舟は来ています。見えないだけです。幸せはあります。それをビジネスとして伝えて良いのです。そうした時代となったのです。あらゆる書物にそれが書かれています。そうした書物も読まなくなりました。テレビではおバカなことばかりしています。知る人は知っています。だれもが知って、だれもが幸せとなって、時代が進化します。
求めていたモノは幸せの形だったのです。始まったのです。新しい時代です。まだ、知らない人が多いのです。それを伝えてビジネスとなるのです。既存の産業の60数パーセントがこれより淘汰されます。どうぞ気づいてください。それは有るのです。今も昔にもそして未来にも有るのです。私たちは今、見えないだけです。知らないだけです。見える人から始めれば良いのです。新しい幸福論の時代です。それでビジネスする時代です。
この世に生まれたからには誰にも必ず一つ誰よりも優れたモノを持っている、と言われています。それを見つけて生きていくことで幸せな人生となるのです。それを知らずに生きていると、何時までも変化はないのでした。誰もがそれを見つけて幸せを手にする時代です。誰もが同じ事をしなくて良いのです。それが個性の時代ということでした。それを生かせば良いのです。やがて誰かに見い出されるでしょう。一休禅師もそうでした。彼は修行して、師匠に見い出されました。出る釘は打たれると言われます。それで、消極的に生きた方が良いと思うのです。出過ぎた釘は打たれないのです。消極的な人生では花と咲かないでしょう。積極的に生きて良いのです。人生の花を咲かせることが良いのです。
どうして積極的に生きることが出来なかったのでしょうか。それぞれ原因と理由があることでしょう。何かを探していて、それが見つかるまでは積極的になれないのでした。それが見つかって、自信が回復します。そして新しい時代となるのです。自分がこの世ですることがあります。それは過去の反省でした。これが出来ないと新しい自分の時代が始まらなかったのです。宗教ではこれを懺悔と言います。別に既存の宗教でなくて良いのです。自分でそれをすれば良いのでした。方法は、宇宙に謝るのです。心から謝ることでそれは通じます。そうしたことがあるのでした。そうであるなら、それをすれば良いのです。要は心から、本気で謝ることをするのです。それが、「信を以て入ることを得たり」とするところです。信じるということはそういうことだったのです。自分を信じれば良いのです。
見えて来ましたか。それは有るのです。見える世界と見えない世界があります。見えない世界が見えるようになることを第三の目が開くと言います。だれもがそれを持っています。だけど、見えないのです。だから、悪いこともするのです。悪いことをすれば、それが原因となって、その結果があります。だから、悪いことはしないことです。だけど、人間はそれを繰り返しています。
幸せをビジネスとしていくのです。それは考え方と心を扱います。それがビジネスとなる時代の到来です。私たちは幸せになるために生まれて来たからです。その形はみんな違います。概念としては一つです。それを実現していくことをサポートしていくビジネスがあって良いですね。その考え方を伝えることを以て報酬をいただけるのです。受験するための学習塾のようなものです。本当の実力の時代です。実力があれば、個として生きてゆける時代です。このことを情報として、発信していくのです。それが可能になりました。これを以て情報化社会の到来とするところです。誰もが情報発信して良いのです。そうした情報を世界が待っています。時は来ました。始めましょう。
私たちは幸せになるために生まれています。そのために必要だったのが過去から自由になることでした。それはどのようにすれば良いのでしょうか。不思議な形でそれは訪れます。この世は、不思議の国だったのです。そうした不思議な世界と出会えば良いのです。それは突然現れます。そのために何が必要だったでしょうか。身心清浄です。しかし、これが難しい。滝に打たれたりするのもこのためです。身心清浄になれば、それが善。そうすれば不思議の国の住人として迎え入れてもらえます。それは有るのです。今も昔も、これからも。
幸せになれるのなら、それを学びたいと思いませんか。結局、幸せの形はそれぞれあって、それを実現していくのです。方法は種々あります。禅もその一つでした。貧学道というのもありました。どれが一番良いのかは、実践してみなければわかりません。要は身と心で学ぶ必要があったのです。ビジネスもそれで成功するために必要なのは、考えることと行動することです。どちらも積極的にする必要があります。そうしないと、花と咲いて結実しないからです。何事も同じ事だったのです。山にある桜の木は、春となって咲かなければその存在がわかりません。私たちも自分自身の花を咲かせようではありませんか。何の花を咲かせるのだったでしょうか。それぞれ、ちがいます。それを見つけるのです。より良い花を咲かせたいですね。それは何だったのでしょうね。どの花を咲かせると幸せになるのだったでしょうか。それを見つけませんか。誰もが花を咲かせることが出来ます。そういう時代となりました。既存の仕事の多くはなくなります。その時、どのようにして生きていけば良いのでしょうか。自分の花を咲かせて生きていくのです。
多くの苦悩を通って、本当の幸せへと辿り着くことが出来ます。それが経験ということです。そして、正しい考え方と実践で簡単に至ることが出来ることに気づきます。あらゆる大富豪の教えがそれを伝えています。彼らも必ず一度や二度は挫折しています。そして最後まで諦めなかった人が成功します。諦めないことです。
心がすべてです。いつかそれが現実に染み出して結実します。それが人生だったのです。だから、諦めないことです。すべて自分だったのです。これは重要な概念です。
テーマは、愛と自由と平和です。かつて芦辺信義教授が、憲法とは個人の尊厳及び自由を保障するために国家を縛るものだと仰っていました。個人の幸福追求の保障こそが憲法の目的だったのです。幸福はあるのです。そのために、自由があるのです。そうであるなら、限りなく幸福を追求して良いのです。そして幸せになりましょうね。それは、保障されています。
悩み続けている方々が多いですね。それは本当の幸せを探しているのですね。いつか見つけることでしょう。それを見つけるための案内人がいても良いですね。そうしたビジネスがあっても良いですね。私たちは幸せになるために生まれているからです。そして時代もその環境を調えつつあるからです。
幸せとは何だったでしょうか。人それぞれにその形があります。それを見つけることから始めましょう。お金ですか。愛ですか。自由ですか。名誉ですか。地位ですか。そのすべてでしょうか。人それぞれです。それを見つけて幸せになれるのです。悩むこと自体が目的ではありません。しかし、悩むことを通ってでなければ至れない幸せの形があります。だから、悩んで良いのです。いつか、その悩みから脱却しましょう。必ずそこに待っている人がいます。その人と出会うために通らねばならない道があるのです。こうしたことがあらゆる文学のテーマでもありました。文学と言えば、トルストイの『戦争と平和』があります。岩波文庫で8冊です。500人もの登場人物が描かれていて、主人公はアンドレイとニコライだったでしょうか。いずれにしても壮大なドラマです。しかし、最初のあたりはちっとも面白くないのです。しかし読み進めて、最後のあたりではページをめくるのが惜しくなるほどの魅力があります。読み終わりたくないのです。そうした素晴らしい小説ですが、トルストイは晩年になってその小説としての価値を否定するのでした。そして、新しい文学の形として書いたのが『イワンの馬鹿』です。その後、『人生論』など書いて、神秘家となるのでした。80歳を過ぎてトルストイは家出します。ある夜、地方の駅舎の前の雪の中に倒れていました。鉄道員がそれを見つけてベンチにそっと寝かせ、やさしく毛布を掛けました。トルストイの最期です。彼の妻は悪妻でした。それから逃れるようにして彼は彷徨っていたのでした。
それぞれ、幸せになって良いのです。その形はそれぞれ違います。誰もが幸せになるために生まれています。幸せになるためには平和であることが前提です。今、それが実現できる時代を迎えました。コンピュータの普及がそれに拍車をかけました。
幸せの形は突然、実現します。あらゆる悪を払拭できた時にそれは有ります。そのために必要だったのが過去から自由になることでした。どうすればそれができるのだったでしょうか。その方法が懺悔だったのです。座禅も神に祈ることもそうでした。そして身心清浄になるのです。今、禅も苧坂光龍禅師等の在家禅となって、個々に実践できる時代です。
幸せとは何だったでしょうか。それぞれ形は異なります。それを探すために、過去からの歴代の遍歴の中で、この世に生まれたのでしょうね。しかし、生まれ落ちた瞬間、本来の使命を忘れると言われています。本来の目的があるのです。それを思い出してこの世で探すべきモノがあるのではないでしょうか。探しモノは何だったでしょうか。何事も案内人がいると安全です。間違えると、奈落の底に落ちることもあるからです。一緒に探しませんか。方法はあります。時節到来すれば、それはこの世で結晶します。そして輝き始めるでしょう。それと邂逅した時、生きていて良かったと心から感激し、涙が止まらないことでそう。それが幸せの形だったのです。幸せは有ります。この世に。
新しい時代の始まりです。何もかもが急速に変化します。淘汰もあります。いよいよ、個々の幸せが実現される時代の到来です。時が満ちたのです。過去からの約束でした。太陽系は今、フォトンベルトを通過しているのでしょうか。そのための異常気象でしょうか。いずれにしても私たちは幸せを形にすることが出来るのです。そういった時代に突入したのです。あらゆる悪はいつか滅びます。そして真実の人生が必ず勝利するのです。それは何だったでしょうか。愛と自由と平和です。それを見つけて始まります。そのために、試練も有るのでした。いつか必ず、誰もが実現するのです。私たちは、そのために生まれていました。さぁ、始めましょう。私たちの時代を。
ビジネスも産業もその形を変えていくでしょう。だれもが今、暗い世界で悩んでいます。明るい世界で自分を生きていくことができます。どうすれば良いのだったでしょうか。かつて南こうせつが歌っていました。「古いコートは捨てて、僕の胸でおやすみ」と。そうです。古いコートを捨てて、生まれ変わるのです。それが成功だったのです。そして何をしても良いのです。それが開眼でした。そして本当の幸せを見つけるのです。その要件は何だったでしょうか。それが身心清浄でした。そうすれば、邂逅があります。それは向こうからやって来るのでした。そのためにあらゆる修行も有るのでした。要は自分自身だったのです。それをどのようにして実現するのだったでしょうか。実現した人にしかわからないモノがあります。その方法があるのです。それをお伝えして、それをビジネスにして良い時代となりました。幸せを売るのです。それを見つけているのなら、それを採集して売って良いですね。
シンガーソングライターのCDも売れなくなり、テレビを見る人が少なくなりました。世の人々は何を求めているでしょうか。幸せです。それを形にすることが出来れば商品となります。これまでは見えるものしか売ることが出来ない時代でした。しかし、コンピュータが普及して、見えないモノである情報が売れる時代となりました。
情報理論というモノがあります。それは、この世のモノはすべて、文字であっても、絵画であっても、形のない音楽であっても、二進法すなわち0と1で表現することが出来るということでした。これはとても画期的な理論でした。この考え方はそれまでこの世になかったのです。それを計算する機械として、プラスとマイナスで可能なのがコンピュータでした。その開発のスピードが凄かったですね。あっという間に、庶民が手にすることが出来るようになりました。そして今、それがスマホ或いはアイホンへとさらに進化したと言えるのです。これでアルビン・トフラーの言う『第三の波』としての情報化社会が実現しました。私たちは今、この激動の時代に生きています。ちなみに、第一の波は農業革命でした。これにより人間は狩猟漁労から農耕による定住生活が可能になり、そして農閑期には手が解放され、色々な物を作ることが出来るようになりました。第二の波は産業革命です。蒸気機関が発明されたことにより、産業が工業化していきました。しかし今、それに伴う弊害としての公害も克服され、さらに新しい時代としての情報化社会への移行の中にあります。見えないモノを扱う時代が進行しているのです。そして人々は幸せを探しているのです。これは人類の永遠の夢でした。それもビジネスになろうとしています。そのためには平和でなければならなかったのでした。
新しい時代です。第三の波としての情報化革命も着実に進行しています。人類の進化傾向としての目的は幸せでした。それも夢に終わるのではなく、実現できる土壌が調いつつあります。既存の産業のいくつかが終演していくのは無理もないことです。これからは、情報が財産となることでしょう。そして情報として価値があるためには。その情報が知的財産に属する必要があります。単なる噂や中傷誹謗は情報は呼べないでしょう。さらに、価値として最も重要なのは、個々の幸せに貢献するモノであるということとなるでしょう。こうした中で、幸せの形を商品として提供できるなら、それは無類のビジネスとなります。それはとてもニッチなモノでしょう。しかし商品は、自分が良いと思っても、それが売れなければ意味がありません。それを売るための方法もあるでしょう。
何事も経験である、とフランスで客死した森有正氏も全集補巻の中で書いていました。
何事も先駆者であることが大切です。誰かの二番煎じでは駄目です。そして誰もが何かの先駆者になって良いし、なれる時代となったということです。それを見つけ出すのです。
書くことは好きです。読書も好きです。高校の頃には、だれよりも文章力がありました。しかし、それにいつまでも気づけない自分がありました。いつかそれらが結実する時節が到来します。そして自信が回復します。それからだったのです。自分の好きなことをして、それをビジネスにして自由に生きていくことが出来れば、それは幸せの形の一つですね。しかしいくら才能があっても、それを世に問わなかったら、何も実現しません。どうしてそれを世に問えなかったのでしょうか。自信がなかったからです。どうして自信が持てなかったのだったでしょうか。それには種々の理由があります。過去からの個人的な問題もあって、それを解決しなければならなかったということもあるでしょう。そうしたことをすべて成就して、ある日突然、時節が到来します。そらから始まるのでした。その時、自分を含めて、すべてに感謝していることでしょう。そうすれば笑顔が日常となります。このような幸せの形があります。その時、大自然も祝福しているかのようで、美しい景色と出逢います。すべてが喜びとなります。ベートーベンは『苦悩の英雄』と言われていました。しかし、いつか彼の楽曲は「歓喜の歌」となるのでした。ある晩年の楽曲では、悲しみの旋律が一瞬現れるのですが、その後、二度とそれはなく、喜びの曲となっています。ピアノソナタも第29番を通って、第30番、第31番、第32番はまさに喜びの歌です。こうした喜びの世界があり、そこに至ることが出来れば、それが幸せの形だったのです。そして今、こうした喜びの世界をだれもが実現できる時代となったのです。そこに至るにはどうすれば良いのでしょうか。どのようにすれば、苦悩から脱却することが出来るのだったでしょうか。方法はあります。一緒に幸せになりましょうね。いよいよ、そういった時代に突入したのです。
私たちは幸せになるために生まれています。そのために何度も生まれ変わっていたのかも知れません。そして今、それを実現することが出来る時代となっているのではないでしょうか。明治維新に日本は世界と出会いました。しかし、それは恐怖でした。セポイの乱及びアヘン戦争後であり、世界は西洋列強によって分割されていました。その後、日本はその流れの中で、悲しい歴史を辿りました。原爆も投下されました。それを通らねばならなかったのでした。