デザインについてⅢ

2009/09/25-26

  • しばらくついに彼を理解する人は現れませんでした。一つのチャンスがありました。準備は調っていたといいます。みんないい加減な仕事をしていませんでしたか。何が真実だったのでしょうね。探そうともしなかったですね。彼が取り組んでいたのはそれでした。そして時が来ました。ないのであれば作るしかない。それが枯れ木に花を咲かせることだったのでしょうか。失われた何か大切なものがあります。それは何でしょうか。運命を変えることができるということを彼が初めて知ったのは、安岡正篤氏の本を読んでいた頃でしょうか。亦、住む世界がないなら自分で作るしかないといった考え方は吉田健一氏の本の中にありました。フランス語で夢を見たいという夢を実現するためにパリで客死した森有正氏の生き方に感銘を受ける頃、氏の本の中にパスカルがいて、全集も補巻に至って経験ということが全てであることを知ったのでした。自らの胸襟より出でたるモノでなければ本物ではないということは、在家禅を完成させたと思われる苧坂光龍老師の本の中にありました。日本はすばらしい先達がたくさんいて、不思議な國ですね。日本は大丈夫とする所以です。見失っていたのはそれでした。何時か経済至上主義に陥って。そしてどうなったのでしょうね。テレビ界及び芸能界は猛反省を要します。どのレベルの考え方を流布吹聴したのですか。故に、教育も自信を失った。愛は自分のためにしない。公共性概念もそうでした。自己利益追求は諸価値を破壊して顧みることはなかった。それが一人歩きしていた。蔓延ったのはそれだった。反省するべき頃です。そして本来日本を見つめ直し、取り戻すことから始めましょう。新しい時代です。私達は誰もが幸せになるために生まれました。前進です。
  • 本来大和は負け戦はしない。明治以降の下級精神にとって、それまで培っていた上級精神は邪魔だった。故に悉く破壊した。今もそうである。西洋化することこそ彼らの生きる道だった。それで良かったのでしょうか。故に彼は苦しんだ。その苦しみもやがて代償の法則が働く。ついに彼は気づいたのです。それは何だったのでしょうね。全体の趣旨から勘案されたいとのことです。精査されたいとのことです。それが彼の夢でした。それが実現したのでしょうか。三十有余年は無駄に流れたかと思われました。そうでもなかった。彼こそ彼でした。父昭亮も祖父良亮もそうでした。千畝、嘉兵衛、覚兵衛もそうでした。代々、このようにしてするデザインもあったのでしょうか。取り戻すべきは何だったのでしょうか。貶めていたモノは何だったのでしょうか。彼はいいます。偏に知性である。万物の霊長として進化した。それは畜生を乗り越えてのことだった。そして阿修羅があった。それを今、乗り越える時が来た。即ち、殺戮なくして平和を勝ち取る。人類の祈りがある。夢がある。何時か至る。誰もが至る。必ず至る。何処へ至るのか。しばらく見失われていた道しるべが見つかりました。
  • ところで、彼がいっていることは決してアナクロニズムではありません。19世紀には、既に西洋哲学思想が没落していたとする観点は、多くの識者には常識でした。しかし20世紀はその多くを戦乱で明け暮れました。本来戦は何のためにしていたのかを考える必要があります。それは決して、自らの主張を通すためには手段を選ばない思想ではなかったはずです。市民或いは庶民を盾として犠牲に処する戦法は明らかに戦争法違反です。第一次世界大戦より、航空機が武器として使用されて、いつの間にか大量無差別殺戮となりました。そしてその流れを通って今、それは無価値であることに決しました。西洋も待っていました。新しい世界の基準と秩序の創造の時です。戦後の問題は次世代が解決すると中国の首脳がいいました。それは口角泡を飛ばして議論する粗野な全共闘的な考え方ではなかったのです。裏声で君が代を歌うかのような、何処までも建設的な未来志向だったのです。理念はありますか。ビジョンはありますか。問われているのは、ワールドワイドグランドデザインです。即ち世界平和です。これまで餌食とされた善良な庶民の解放です。知性を要します。属性を要します。自覚を要します。時を要します。これまでの身勝手は通りません。識者の傍観もあまりにも消極的でした。彼はそのために生まれ、生きていたのです。そして孤独な旅を終えて帰ってきました。彼こそ彼でした。改めて調査して解ったといいます。あまりにもでたらめな時代がありました。何をしてきたのでそうか。それぞれ処したる人生があります。本当の意味で畏れを知らない。そして勝手したのです。みな同じと思ったのです。基準は自分でした。過去があります。子供の頃の自分を思い出す頃となりました。甘かったですね。草鞋銭請求の頃です。或いは不当利得一括返還請求です。それが智慧だとはいわせないと彼はいいます。