何度か戦闘がありました

2015年01月15日

  • 何時の頃だったろうか。ヘルパーが制度的に整備される前だった。ボランティアをしていた。『おりづるの会』という名だった。社協及び保健所のバックアップを受けていた。特別養護老人ホームでシーツ交換などしていた。そして独居老人話し相手ボランティアというのがあった。二人一組で訪問してお話を聞かせてもらうのだった。若い頃の思い出をずいぶんと楽しそうに話してもらった。そうした活動の中で、宮田さんという人に出会った。その人は2.26事件を東京で目撃していた。タクシードライバーをしていたからだった。その後、中国戦線で7年間、トラック部隊に所属していた。中国大陸を戦いながら南下し、最後はビルマだった。そこで捕虜となって、『死の島』と呼ばれていたレンバン島に抑留された。持たされたのは芋のツル1本だけだった。進軍の途中で何度か戦闘があった。足に銃弾を受けて歩けなくなったこともあった。宮田さんは時々、涙を流しながら話してくれた。何度か一人で訪問してお話を聞かせてもらった。ある町に入ろうとすると、街道の端に何が並べられていたのだったろうか。とてもむごい内容だったので、今は筆舌に尽くしがたい。宮田さんはそれまで誰かにこうしたことを話したことはなかったであろう。しかし余命いくばくもなくなり、脳梗塞も患って日々、ベッドに伏す生活だった。誰かに話しておきたかったのであろう。何度かお伺いしてずいぶんと聞かせてもらった。いつか伝えなければならないのだった。宮田さんはその後、呉市の主催するテレビ番組で、脳梗塞となって不自由な生活を強いられながらも一人で元気に暮らす老人として紹介された。しかし、私が聞いた彼の戦争体験を話したわけではなかった。宮田さんが戦後、広島の宇品港に復員して最初にしたことは何だったろうか。金鵄勲章を売り払って屋台でコップ酒を飲んだことだった。宮田さんは言った。殆どの日本兵は戦場においてとても紳士的だった。だが中には、何人か必ず粗暴な兵士がいた。戦闘が始まると弾丸は後ろからも飛んでくる。宮田さんは目を光らせた。どういうことだかわかるか、と聞いてきた。わからない、と答えると説明してくれた。日々の恨みから上司を背後から狙い撃ちする。戦地での残虐な行為があるのだった。それが戦争であった。虐殺もあった。申し訳ないことだった。
  • なんてことだったのでしょうか。あなただったのですね。そういふことだったのですね。まだまだ、これからですね。どうぞよろしく。
  • ソクラテスは言った。私は知らないことを知っている。デカルトが言ったのは、コギト・エルゴ・スム。これらが同じことであるということに彼は気づいている。それが知る人は知るということだった。彼の知性は尋常ではない。しかし彼は世間で埋没した。それも試練だった。
  • 彼は何かをいよいよ自覚してしまった。それって何だったんだろうね。彼こそ彼だった。どうしようもない事実として。まるで夢のようだね。
  • 日本は二度と戦争をしない。それでいいのである。世界で唯一の被爆国として。そうであるのに、集団的自衛権とは何事であるか。A級戦犯はA級戦犯である。
  • 何を目指し、そのために何を自覚するのだったでしょうか。信じられない日々がありました。いつまでもそうではないのです。いつか成就するのです。何を成就するのだったでしょうか。いろいろな出逢いがありましたね。あなただったのです。これからですね。ありがとう。
  • あなただったのですね。ありがとう。不思議な人生がありました。