無畏施

【2009/09/05】

  • 無畏施ということがあります。それが観音菩薩の功徳です。何を以て無畏となるのだったのでしょうか。それは生死を越えることだったのです。インドの釈迦も生老病死に対する不安から逃れるために出家しました。そして謎を解いて解脱しました。そして説きはじめたのでした。生死を越えるとはどういう事だったのでしょうか。それが佛の智慧でした。我々は生きていると思っています。それが如何にも実存であり、亦不条理であって当然なのだと自己正当化します。これを佛は虚空の如しとするのです。どういう事でしょうか。本来私たちは何だったのでしょうか。世間虚仮といいます。私たちが実体だと思っている生そのものが空であり、本来無一物とするところです。これが解れば解脱自由です。どういう事でしょうね。解るためには経験する必要があります。体験することで心が決まります。自分はどんな事があっても大丈夫とする絶対の自信となります。身を以て始めるしかないのです。その時、明確な目的を持ってする必要があります。そうしないと意味がないのです。何も得られません。そのようにできています。明確な目的を見つけるまでの修行があります。明確な目的を見つけてからの修行があります。それぞれのプロセスに於いて反省と分析があります。そして何時かゴールします。夢が実現するとする成功理論もそのようにできています。潜在意識を信じてポジティブ思考で生きていくことで確かに引き寄せの法則が働くこともこの原理からです。その時、主語ではなく述語が動きます。故に言霊とするところです。何故でしょうね。見えない世界があり、それは魂の世界です。見えない世界に認められるかどうかです。見えない世界を否定していませんか。これを肯定するところから始めませんか。何時か至ります。誰もが至ります。必ず至ります。道とする所以です。結局は経験です。経験については森有正氏もその全集補遺で説いているところです。経験して信じることができます。知らないことを以て否定してきたのです。行為する前にできない理由を並べ、言い訳ばかりしていたのです。此処に私達は敬虔と謙虚さを失っていました。宝は取り放題です。この世はそのようにできていました。世の親と教師がそれを知らなかったのです。それで知らないことを以て常識としていました。子供達の夢は悉く壊されていきました。そして社会に出ると学校的優等生は、学校の勉強は役に立たないとする者達の経済的弱肉強食の餌食となるばかりです。何か子供達に教えるべき事がありますね。それは何だったのでしょう。この世でいかに強く生きてゆくべきだったのか。その理念を欠いていたのです。大切なのは真の平等です。それは機会均等だけでは足りません。それぞれ持って生まれたモノがあります。それぞれそれを十全に発揮することができてはじめて真の平等だったのです。低いレベルで均一化を考えていませんでしたか。不幸は己の能力と現実とのギャップです。学校を出て、社会は別の論理で動いています。無防備であればどうなるのでしょうか。餌食となるだけです。いじめの問題は学校だけのことではありません。社会に於いては経済的ないじめが明らかにあるのです。野蛮な閥がそれです。見直すべき時が来たのです。愚かなお笑いは辟易とする知性の復活です。さて、この世で無畏はあります。生死を越えるのです。絶対の自信となります。それが佛の智慧でした。その時、何が起きるのでしょうか。如来がその衣で身を被い、その御手で頭を撫でてくれるでしょう。これは比喩です。具体的には、大自然からの受容祝福であり、やさしい人間関係です。それは自分次第だったのです。その時、私たちが本来求めていた本当の幸せを知るのです。私たちの本体は魂です。魂の過去からの遍歴の途中です。それは過去からの夢の実現過程でした。この世でそれを成就することができるでしょうか。できると彼はいっていました。その方法が何処かに確かにあるといいます。彼は何を見つけているのでしょうね。
  • 為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり

  • そうした精神を一笑に付していませんか。自己利益追求主義の故に。見直すべき頃となりました。本当の幸せって何だったのでしょうね。始めませんか。この方へ。新しい時代です。時は今、誰もが幸せになって良いのです。

  • Plan. do, see, and Action !

  • ところで天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。彼はいっていました。人の上に復活するべき天がゐる。