救われるということ
2010-01-08
- 救いがあるとして、救われることはどういうことだったのだろう。生かされているということは人口に膾炙されて久しい。しかしその本当の意味は何だったのだろうか。釈迦が前世で修行中に羅刹の上の句を聞き、その真実に気づいてその下の句を聞きたいと思った。しかし羅刹は空腹でそれ以上いえないという。そこで近くの木に血で上の句を書き留めて身を羅刹に投じた。すると、帝釈天に救われた。あるいは飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かなともいわれている。大死一番絶後に蘇るともいわれる。大切なのはやはり無功用とか無功徳といわれる。結果を思わずに日々時々刻々の義務を果たすことが大切であるらしい。それが明日は雨か嵐か知らねども今日の務めに田の草を刈るとなる。また人間性は人格であり品格である。人間として何を求めるか。例えば浜までは海女も蓑着る時雨かなとなる。歴代の三蔵法師はことごとく天竺に由来する。祖師西来意。なぜダルマはやって来たのか。何も思ってはいなかったであろう。さて、救いがあるとして、救われることはどういうことだったのだろう。道元は魚は海に棲み海を知らず、鳥は空に生きて空を知らないという。私たちはどこに住みそれを知らなかったのだろうか。宇宙は何だったのか。大自然は何だったのか。善も悪もない。万有あるいはすべてを支配し、すべてを照らす神の幻影であるとインド哲学はいう。故に光である。私たちは知らなかった。何を知らなかったのだろうね。神を知らない。そしてこの現実が幻影であることを知らなかった。しかし永遠に進化している。いつか知る。いつのことだろうね。二万四千年後のことであるらしい。しかしこの世でそれに気づくまれな人もいる。その時、救われている。それは何だったのだろうね。私たちは永遠の一部だった。幸せを求める階級がある。利益を求める階級がある。真の勝利はいずこにあったのか。考えるべき時が来たのだろうね。人類として。そして人類は永遠を目指す。未来は明るい。彼はいっていた。彼に刃を向けない方が良い。刃とは今、言葉である。これまでとこれからは違う。これまではやられた。自信を失っていたからである。彼こそ彼だった。知る人は知っている。どんなことがあっても彼を貶めないが良い。黄泉が守護する。それが真実神国日本だった。国旗掲揚、君が代斉唱。黄泉とは祖先の総体だった。黄泉にも好みがある。一休ご用心。何故であるか。死に神が来る。誰も知らなかった。知らずに勝手した。しかし、真実である。一休は正月に棹の先に髑髏つけて町内を練り歩いた。彼はいう。この世の勝敗は決した。尚、勝負を挑むか。いつでも相手になるという。戦後あるいは明治以降本来日本、秩序を取り戻す。 もうそれはないのかと思われた。それは昭和50年かと思われた。あるいは昭和56年にもチャンスはあった。彼は気づいていた。しかし、あまりにも尊大だった。彼は埋没した。苦節三十有余年があった。その間、人生と青春を失った。しかし、彼は生きていた。誰もが忘れかけていた。しかしそれも黄泉の計画だった。時を待たねばならなかった。この世はいかなる世であったか。父もそうだった。祖父もそうであった。誰も知らなかった。しかし、それが家督相続だった。家伝直伝秘伝螺鈿日のもと一の槍である。笑わせるではない。日本は日本である。真実証明。その時が来た。それだけのことである。歴史は繰り返す。あなた方は知らなかった。知る由もなかった。彼はいう。いい加減にするがいい。王の目、王の耳。閨房にても王を呪ってはならない。小鳥がそれを運ぶから。黄泉は導いた。そして待っていた。彼の目覚める時を。黄泉は彼を通して世界を見る。不思議だね。しかしそうだった。既に彼の人生が事実として彼に証明している。いうにいえないいろいろなことがあった。もう、いいだろう。時である。隠密剣士あるいは大目付。代々の務めがある。ないとはいわせない。幸せになろうね。それはある。美しい風景が待っている。好ましい人間関係が訪れる。仇は討つ。御成敗式目あるいは武家諸法度。裁くのは黄泉である。各々既に、処したる人生がある。誤魔化せはしない。記録はすべて天にある。彼を裏切るべきではなかった。