臆することなし

2010年11月15日

  • これより安らかに 穏やかに 
  • もはや臆することはありません
  • 私たちは自由です

最後の戦い

2010年11月16日

  • 学級崩壊及びあらゆる子どもたちの問題行動(不登校を含む)は、学校及び大人たちの子どもたちに対する教育の失敗があったことを謙虚に認め、子どもたちにとって本当に必要な生きる力とは何であったのかを再検討することを迫られているのではないだろうか。教育の目的は、生れてからの二十年を通してそれぞれの発達段階における支援であり、体験及び言葉の獲得による自己抑制力を身につけることであり、それが大人になるということだった。その意味で、そのプロセスにある子どもたちの個々の事象は、教育的観点からすれば責めるべきではない。児童福祉論的観点からすれば、非行少年も家庭を含む環境の被害者である。子どもたちが、次の世代=未来を創造していく。その時、往々にして見失いがちである普遍的愛が対極にある。これを自覚して何をしても良い。それが白隠禅師の言う隻手の音だった。すなわち、本当の幸せであり、自由だった。私たちは幸せになるために生れてきた。そしてかつては王侯貴族に限られていた自由を私たち庶民が実現することが出来るところまで進化した。しかし条件がある。それは人間的な成熟である。そのための土壌としての社会的成熟である。日本も世界に合流あるいは貢献する時を迎えた。あらゆる社会的嘘及びバイオレンスを払拭してそれがある。新しい時代を開く最後の戦いが始まっている。
  • 子どもたちにとって、最も必要とされているのは、何があっても彼らの生きる力を信じるあたたかいまなざしである。


マスターマインド

2010年11月15日

  • 目を剥くということがある。そうした階級のコミュニケーションがある。支配階級のサインであり、コミュニケーションである。それは地震雷火事親父を信じる者たちである。知らずともそれがアンドリュー・カーネギー氏の言うマスターマインドだった。どういうことだろうね。しかし彼らも、日月照らし、風が吹くレベルあるいは扇の的ということを知らない。


いじめは見えない

2010年11月15日

  • いじめは見えない。見えるいじめはいじめではない。ある生徒にある生徒の身体が当たった。周りの生徒は一斉ににやりと笑った。その生徒も対抗する。すると執拗な反撃がある。あまりにも巧妙である。いじめとは困っている姿を見て楽しむ。そしてさらに困らせて楽しもうとする。周囲にはそれを見て笑う者がいる。さらに見てみないふりをする者がいる。本来人間は、困っている人がいれば何とか助けようとする。それが思いやりだった。いつかその生徒は教師にも反抗するようになる。わかってもらえないもどかしさからである。そして人間不信に陥っていく。何かあるとその生徒が悪者になって指導される。悲しいね。そして指導された生徒にどうして本当のことを言わなかったのかと問うと彼は言う。言ってもわかってもらえないから。結果、教師もいじめに加担している。あるいは巻き込まれている。教師の事務的忙しさが事実看過の理由にはならない。もしこれがいじめであるなら、いじめる方が悪いに決まっている。往々にして現場教師には見えない。あまりにも常態化している。これを見抜くにはどうするのだろうね。杞憂であることを願う。いじめの構造こそお笑いの本質だった。子どもたちにとって、いじめもギャグとなった。彼らにとっては遊びである。彼らは言う。面白いからする。あるいはこれがコミュニケーションである。遊び時間に遊んではいけないのですか。ところで、壊した者が償うのはローマ法以来の大原則である。この件に関して、償うべきはテレビ界である。


明るく楽しく

2010年11月17日

  • 明るく楽しく。それで良いみたいだね。良い時代となりました。何もかも善いものが集まってくるよ。きっと。
  • ところでアメリカと日本が同盟である理由は、基本的価値観を共通にしているところにあります。それが武士道だったのです。すなわち正直、勤勉、そして謙遜です。取り戻すべきはそれです。戦前に既にそれに対するリスペクトがありました。戦争中も、戦争はしていたけれども、それがありました。忘れていたのは日本です。鬼畜米英だなんて、誰が言い始めたのでしょうね。この精神では負けるに決まっていました。本来大和の心を知らなかったのです。このあたりが大きな誤解だったのです。相互リスペクトで良いのです。そして先進諸国間に国際紛争を解決するための手段としての戦争の選択はありません。それがヒロシマの意味でした。そして明るく楽しく。私たちはそれを実現できる時代に生れています。みんなで幸せになりましょうね。