汝自身を知れ
2010年10月04日
- あらゆる謎が解かれたと彼は言う。それは何だったのだろう。秘密に属する。知る人は知ると信ずる。孤独だったね。それも報われたね。あなたは一人ではなかった。随分と時間はかかったけれど、ついに謎は解かれた。今からでも遅くはない。私達も探していた。どこかにそれはあると感じていた。花は何処へ。その花が咲いた。
- 何故当時、廣島に大本営があったのか。またどうして、旗艦戦艦大和は呉だったのか。謎は謎であり、秘密は秘密である。いろいろな解釈があって良い。
- 個性重視の時代である。それは多様性を認めることだった。多様性を認めるとは、誰もが違っていてそれで良いとすることである。時代は今、100年計画としての第三次生物多様性国家戦略の中にある。地球温暖化の問題もこの中にある。これからの法律を含むあらゆる制度を規定する。
- 自分を知るとは、アイデンティティとしての個性(ルーツを含む個人情報)を知り、自分を確立することである。選択肢があまりにも多くて、自己決定が難しい時代である。惑わしも多い。ともすれば、自分を見失って、嘘あるいはバイオレンスの犠牲となる。自信を喪失して優柔不断となり、人生が混乱する。それを餌食とすることが智恵だと思っている者たちがいる。企業もしばらく、社会的公器としての自覚を失っていたのではないか。あらゆるポイント制及びカード類があまりにも胡散臭い(事実として不当利得を狙っていないか)。自社利益のためにする事実上労働基準法を無視した派遣社員制度は人間の尊厳をあまりも踏みにじる身勝手なものではないか。そうした現代社会である。故にどうにもならなくなった。
- しかし今、君こそ君だったとはさすがに知らなかった。それが本来日本君が代だったとは。君は言っていた。浄瑠璃を聞けば、祖先がわかる。そのようにして伝えられていた。それがインスピレーションによる作品としての古典だった。ここに本来日本の秘密があった。花は何処へ。花と咲くまで、その花が何であるのかわからない。父もそうだった。祖父もそうだった。尊祖父もそうであったであろう。母は知らない。故に苦労した。しかし、それも試練として自覚の時を待たねばならなかったからだった。そしていつか時が来る。すべてが明らかとなる。埋没を余儀なくされた戦後は殊のほか困難だったね。今も昔もこれからも、真実は真実である。もう、良いだろう。疑いはない。始めよう。本来日本を取り戻すべき時が来た。
- ありがとう。私達も知ることができた。この人生はすばらしい。自分を知って始まる。自分しか知らない自分がある。それが個人情報だった。汝自身を知れということはそれだったのである。『ルーツ』もそうだった。『ダビンチ・コード』もそうだった。『ロード・オブ・ザ・リング』もそうだった。『ラインの黄金』もそうだったのである。
- そして始まる。それを如何に開発するのだったか。私達は自分を知って自己実現するために生まれた。無意味な時代があった。何かが失われていた。それは何だったのか。知るべき時が来たね。
- 鶏頭となるも牛尾となること勿れ。あらゆる成功法則は同根である。それにしてもチャンスは無限である。どこに属しても良い。所詮、己の人格が勝敗を決する。鍛えるべきは何だったのか。鍛え抜いて、世界が見えてくる。何を以ってチャンスというか。己の属する世界をどう束ねるのだったか。社会は混迷している。何もかも中途半端で、それが仕事だと思っている。その中で、如何に自己発見し、自己実現して、花と咲くのか。それがわかればチャンスは常にある。それが蓮華の前に化生するということである。
- そのために、勉学がある。他人ではない。社会ではない。親でも家庭でもない。自分次第である。インド哲学は既に、この世は幻想であると言う。それで良いのである。パラマハンサ・ヨガナンダも『人間の永遠の探求』の中で、この世は映画のようであるとする。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」。
- 人生五十年の時代には、労働従事期間と生存期間がほぼ一致していた。それで自己実現は、労働従事(キャリア)を通して成就するのだった。それはしばらく、経済行為を通して実現するしかなかった。現代においては、お金の追求だった。しかし今、私達の寿命は飛躍的に延びた。故に自己実現(幸せ)は一生を通して成就すべきものとなった。既にパラダイムは転換している。愛及び自由は当然である。
- 時代は今、生涯学習社会に突入した。この人生を如何に生きるのか。神仏は実在する。本当の幸せとは何だったのか。それは諸仏及び黄泉(祖先の総体)の受容祝福守護ではなかったか。その時、自分と世界との関係はどのようであるか。廓然無聖の美しい風景が待っている。広重もそうだった。芭蕉もそうだった。即ち、日月照らし風が吹く。無関心では至れない。私たちは孤独ではなかった。自分を見失っていただけである。
- 自分とは何者だったのか。それはそのまま禅のテーマだった(禅は今、日本にしかない。禅の精神が保たれたのは、商人の家に生れた至道無難禅師、真田家正受老人、500年間傑出といわれた白隠禅師の一本の命脈があったからだった)。それを解決することが、この世に生まれた意味だった。
- 幸せに至るのは、権力、武力、金力の追求によってではなかった。不安(生老病死)はどこから来るのであるか。因縁あるいは前世からの業である。解決するべきはそれである。老若男女すべて、真剣に考えるべき時である。聖書に曰く、人間は万物の霊長としてパンのみにて生きるに非ず。そのために、神の七つの力が賦与されている。
- 悪魔に支配されるのか。それとも諸仏及び諸天善神とともに生きるのか。軽薄及び無意味な時代は終わった。知性の勝利である。意味のある時代となった。魂を鎮めて、新しい時代を開く。禅(禅宗『無門関』)に曰く、「父のものは父に返し、母のものは母に返して」。私たちの時代である。本来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本、身心清浄及び正直を以って旨とする(大和魂)。護るべきものがある。伝えるべきものがある。
- (NHK-FMでルー・タバキンス氏のテナーサックスセッションを聞いた後、広島FMで渡辺貞夫氏の心地よいアルトサックス(ライトジャズ)セッションを聴きながら 2010/10/04 0:36)