英語と日本語は異なる。何故だったのか。日本は四方を海に囲まれた単一民族国家となっている。それで以心伝心の国となっている。ところが英語はもともと大陸的な国家言語であったギリシア語及びラテン語を淵源としている。大陸の中での国家であるとき、相手と遭遇して、その相手が敵であるのかあるいは味方であるのかを先ず見極めなければならなかった。それで、Yes であるのか No であるのかを明確にしなければならなかった。日本語においては、そうした意思は会話において最後にならないとわからない構造となっている。また、英語においては、動詞が必ず二番目に位置する。それが定位となる。ところが日本語においては、動詞は最後である。敵がいる。いかんともしがたい。過去からの因縁である。味方がいる。それも事実である。世界がグローバル化した。日本語も変遷する。国際的な関係において、敵と味方を見極めて議論する必要がある。アメリカと日本はよく似ている。何を以て似ているのだったか。勤勉性である。すなわち hard work を好む。いずれにしても世界は平和を目指す。アメリカと日本は今、同盟である。その意味をよく考える必要がある。世界秩序は今、何を基準としているか。第二次世界大戦の集結である。日本はそれを見つめ直す必要があるだろう。国連憲章において敵国条項がある。それは、削られていない。もっと日本は、謙虚になるべきである。そして反省するべきは反省しなければならない。何を反省するのであるか。A級戦犯はA級戦犯である。そうであるならば、物議を醸すだけの国の指導者を身分としての靖国参拝はあり得ない。