現代成功哲学批判

2010年06月28日

  • 勉強の目的は何だったか。社会人になるための準備だったといわれる。それは会社の期待に応える人だといわれる。それはそれで正しい。社会は一部の方々が支配している。例えば、マネーである。動機として善をいう。それも正しい。しかし、人間である限り、結果悪となる。法華経の説くところである。それを知らない。「人間自ら出ること能わず。善業の因縁より出でたり」。人間は善と思っている。仏から見れば悪である。これが悲しい。現代成功論はどこまでも現世利益的であり、ただ一度だけの人生だという。そうだろうか。前世があり、来世がある。それを認めることができない。ここに、修行を要する。成功とは何だったのか。金銭的に満足することのようである。それで誰もが社長的成功を目指す。それが成功だと思っている。思い上がりであり、勘違いであろう。あらゆる不安から自由となって成功だった。世のセレブが不安より自由であるか。そうであるなら、証明するが良い。寡聞にしてそれが見えない。往々にして勉強を否定する。確かに勉強が嫌いだった方がむしろ社会的に成功している。これこそ問題であろう。現代成功の限界を示していないか。勉強の目的は、会社にとって都合のいい人間の育成ではない。何時か真実をつかむための準備だった。それを知らない。思考力こそエネルギーだった。それを訓練していたのである。そのためには勉学を要する。これより、学校の勉強を否定してきた成功論は陳腐化する。はじめに言葉ありき。言葉とは光だった。真実の言葉を開発しているか。その時、何が起きるのか。天候をも支配する。聖書にも書いてある。山に向かって海に飛び込めというと飛び込む。このレベルが真実だった。それを経験あるいは知った上での成功論であるか。そうであるなら、それも証明するが良い。地球を傷つけた。子供たちを壊した。それで成功であるか。人間は自然の一部である。地球の一部である。魂と宇宙は一体である。公害は何だったのか。仮登記担保及び譲渡担保は何だったのか。それが社会の支配階層の知恵である。これらの損失は計上されていない。償っていない。記録は全て天にある。罪は罪である。何時か裁かれる。そうは思わないか。それでセレブであるか。ラスコリーニコフが笑っている。『戦争と平和』の中でニコライは言った。「私は二度間違いを犯した」。いじめとは何だったのか。高尚な感性を持つ人格形成に失敗した子供たちの行為である。テレビ界及びお笑い芸能界に毒されてしまった。彼らはいじめをギャグだと思っている。反省するべき頃を迎えた。日本として。本来日本は、やさしさに向かって咲く花のようだったと辻邦夫氏は書いている(『季節の宴』だったろうか)。これより本来日本を取り戻す。それは神国だった。その時、不安はない。
  •  史をよみ文ならなくのことどもをなみだとともにゆるし居りぬる
  •  しかとしるわれもはんにゃもなかりけり旅立つ空に雲なかかりそ
  • 彼は何故に現代成功哲学を批判するのだろう。それを否定しているのではない。それは仮城に過ぎない。本当の幸せがある。それは何だったのか。少なくとも学校での勉学をも成就する必要がある。それを謙虚に認めるべきである。学校の勉強が無駄であるかのような現代風潮である。それを批判する。現代成功哲学は、学校に批判的な方々の成功のためであった。しばらくそうだった。何故だったか。自己利益追求主義であったからではないか。即ち、経済的な成功が主たる目的だった。故に、どうなったか。考えるべきはここである。経済は下部構造である。人間はパンのみにて生くるにあらずと既に言われていた。市民革命後、社会は大いなる発展を遂げた。それはそれで良い。市民の原動力は自己利益追求であり、カルバンに発している。400年来のことに過ぎない。その最終段階である。あまりにも地球を傷つけた。子供たちを壊した。これを乗り越えなくてはならない。新しいパラダイムを必要としている。それも当然である。私たちは新しい時代へシフトする。新々大陸発見とするところである。それは何だったのか。不安のない本当の幸せな世界である。権力ではない。武力でもない。金力でもなかった。見えない世界に受容祝福守護された世界がある。見えない世界にも好みがある。彼が言っているレベルがわかるだろうか。学校の勉強を通らねばならない。それは単なる社会人として、企業にとって都合のいい人間となる準備ではなかった。わかるだろうか。