結論

2006年10月28日

今朝の日の出も素晴らしいパノラマだった。しばらく風は吹くのだが、雲は動かない。時は止まったかのようだ。静かな風景である。これから始まる準備をしているかのようだった。はじめに現れたのは、「二」という字に見えた。それがはっきりと「一」となった。
 
それが二回繰り返されて、いよいよ日の出だった。力強い日の出だった。そしていつまでシャッターを切っても写真となるのだった。あまりにも高貴な日の出だった。

 

帰ってパソコンに取り込んで驚いた。太陽が「十」を示しているではないか。
 
双十節の話がある。九は神の数字である。十は佛の数字である。佛の時代の到来であろうか。そのように思われた。真実の佛である。あるいは久遠の佛である。従来の寺は力を持ってはいない。真実の仏法が現れるための準備をしていたに過ぎない。ビジネス僧侶に用はない。木の間透かしの太陽は何に見えるだろう。虹彩に見えないだろうか。あるいはコスモスの中の太陽かな。

 

新しい時代が始まったようだ。さて、そろそろ結論に至ったようである。永い遍歴であった。しかし、道は求めて歩むべきものだね。要は精錬だった。精神のね。まだまだ完成してはいないが、その設計図は得た。それは何であったか。本来無一物というべきか。それから何が出てくるのか。全ては因縁であると思われている。しかし全ては縁である。縁次第である。原因があれば結果がある。その間何があるか。それが縁であり、関数だ。この世はすこぶる面白い。全ては縁次第である。原因は自分。その原因に対して結果がある。悪い自分があって悪い縁があれば悪い結果となる。善い自分があって悪い縁があるとどうなるか。悪い結果となる。悪い自分があって善い縁があればどうか。善い結果となる。これで自分がどう生きるべきかわかる。平等の意味もわかる。自分は原因であると同時に、他者に対しては縁となる。
 
そして重要なことは、宇宙の中に地球があってその上に自分がいる。すなわち、自分は地球であり宇宙である。過去があって今があって未来がある。すなわち、今は過去であり未来である。三世を見通すという。そのためにはどうするか。今を見ればいい。今自分がどうあるべきか。これで過去も未来も解決する。自分次第である。いい時代になった。本来無一物である。何があってもいい。しかしルールがある。それを破ればどうなるか。しかるべき結果となる。それだけのことである。聖書にいう。日のもとに新しきこと無し。今も昔も未来も変わりはしない。現象として違って見える。しかしその本質は同じである。時代は流れた。流れに乗るしかない。しかし悪は悪の結果を産む。善は善の種である。悪が善となるには縁である。これがこの度得た結論だ。何がいいたいのか。すべて赦せる。所詮己次第だ。結果無価値をも赦せる。それで良い。ここを鈴木大拙氏は泥棒もいるから面白いといった。しかし自分が泥棒となるかどうかが別論であることは当然である。縁無き衆生は度し難し。道元は言う。昔より法のうるおいなきことを恨みよ。真実を前にかたくなになると損だよ。でも聞く耳無いね。孔子曰く、耳随う。さて、みなさま、お幸せでありますように。過去と未来はつながりました。(おわり)