言葉の一人歩き
巷に「自信」という言葉があふれている。言葉はやがて一人歩きし、陳腐化する。概念の宿命である。世の中の常である。渾々と溢れ出づる言葉の泉がある。ボーリングするべきはそれだった。さて、もとは「一」である。それが発せられて、一人歩きする。或いは奪われる。そして、本来の意味を失う。それが世間の営みである。そして利益を独占する。はじめの一歩としての「一」はどこにあるのか。即ち、エクスパイア。それが流行の源泉だった。これまでは、自覚がなかった。それ故に、奪われてばかりだった。そして貧窮した。日本の基を貧窮させてどうするのか。それさえも理解する者はいない。それが世間である。しかし何もかも奪われた時が自覚する時だった。ここに、「神のものは神の手に、シーザーのものはシーザーの手に」となった。奪いすぎたのである。奪ったものを返還する時となった。どのようにして返還するのか。焦ったことはない。 Rome was not built in a day. 十分に至り着いている。年貢の納め時である。本来開発するべきは何であったか。禅の挙するところの「一」であった。それは持って生まれた自分自身であった。そして、大切なことは、誰もがその可能性を持って生まれているということだった。時々の選択の自由がある。その処したる人生の結果である。身分に安住し、傍観してどうするのか。一生現役である。自己の存在をどのようにして証明するか。天地自然を味方につけるが良い。黄泉が証明する。憂いはない。迷いはない。確信のみである。何を確信するのか。自分自身をである。安楽行の始まりとなる。決めているのか、いないのか。何を決めているのか。本末転倒、世の腐敗を正す。もはや、孤軍奮闘ではない。黄泉が動く。ところで、何に智慧を使っているのだろうね。既存の方法論が悉く失敗に帰したのではないか。それがバブルの崩壊であり、その後のデフレとそれより脱却できない現状ではないか。電力会社もデータの改竄があった。何を思ったのか私にはわからない。自ら公器としての身分を放棄したのだね。浅はかだね。世間は努力する。既存の方法論で蘇ろうとする。そして、再び失敗する。世の成功者は既存の方法で成功しているのではない。マルチレベルマーケティングもすでに法で認められた流通形態の一つであるのに、まだ、ネズミ講をしようとする輩が後を絶たない。失敗はしても良い。失敗し尽くす必要がある。要は同じ轍は踏まないことである。さて、成功するには、人のやらないことをする必要があるといわれる。それはどういうことか。創始者となることだね。第一人者となることだよ。今までのやり方では通用しない。価値の創造の時である。それは先哲に学ぶ。そしてその英知に何か新しいものを一つ付与する。それで良い。その為には先哲の英知に学ばなければならない。それを怠った。怠った輩が世を支配している。それがテレビ芸能界である。あなた方も努力はしただろう。しかし、その方向性を誤った。『十牛図』というものがある。これは日本にあった。しかし、日本人は忘れていた。ある型がヨーロッパに行って、禅の講義をしていた。いかにも苦心工夫していた。そして指摘されたのだ。日本にはわかりやすいテキストがあるではないかと。そして、再び、日本でも再認識されるところとなった。その第八図は、絶対空である。これは何を意味するか。何もかも失う必要があるということである。サナギのように。そして再び蘇る。それまでが修行であり、青春である。或いは、学習である。そして第九図。自然が還って来る。自然が味方となって。自然の守護を取り付ける。自然の中に生きる。ここで愛と平和が幸せの要件であることを覚知する。自然の擁護するところであることを知る。黄泉の意思であることを知る。そして、第十図。日常回帰である。愛と平和の世界を実現せんとする。幸せで安穏な境界が開ける。暮らしとなる。お金はなくとも平穏である。お金があれば尚好い。これが人生そのものだった。しかし、世間一般、これを知らない。探そうともしない。自分には無理だとはじめから諦めている。そして、永遠に地獄の失敗の境界に浮沈している。ここから、脱却する頃である。それが庶民レベルまで開かれた。仏の一切大衆を救うとするところである。時代の流れである。良い時代が開かれた。愛と平和の世界が開かれようとしている。一つの世界として。仏は自ら出づること能わず。唯、善業の因縁より出でたり、とする。私も、事実、仏縁を頂いた。仏所護念もさせて頂いた。人知れず、相当の行=経験をさせて頂いた。それ故、至ったのかも知れぬ。仏法は人生の基礎であって目的ではないと山田無文老師も仰っておられていたように記憶する。宗教は何でも良い。真実を見れば良い、としたのは中村元教授だった。真理とは何であったか。神仏が実在することではなかったか。此処を通らねばならない。しばらく、それを忘れていた。インテリゲンチャにとって、無神論こそその要件だと思われていた不幸な時代だった。無神論者は来世のあることを知らない。今世の終わりが来世の始まりである。これが魂の遍歴である。この世でどこまで至っておくか。来世を知れば、凡そ悪は為せない。来世を知らなければ、この世で何をするか知れない。神は畏れ、仏は誉め奉るべきものである。それを無視愚弄破壊した。因って、古来大和を裏切った。ペリー来航に乗じて西洋化を急いだからだった。その過程で邪魔となったのが古来大和の価値だった。そうではなかったか。そして、愚かな戦争までした。古来大和の与り知る戦争ではなかった。西洋化の文脈での野蛮な作戦だった。大義名分はなかった。明治維新にもそれはなかった。大義名分とは何であったか。黄泉の守護するに価することだった。それは古来大和の意思に合致することだった。古来大和は譲ったのである。それを裏切った。人生は過去からの夢の実現過程である。何時か至るべき境界がある。神仏の境界である。神仏もそうして至った道がある。その道標が見えるか。神を畏れる人は仏を下に見る。仏を奉る人は神を下に見る。そうだろうか。神も仏も実在する真実真理ではなかったか。どちらも受容するべきではないか。問題は自分自身がそうした境界に何時か至ることだった。神仏はその道を示していたに過ぎない。神仏を知るとはどういうことだったか。神仏と同化するとどうなるか。神仏の退蔵界に入る。即ち、神仏の守護する世界にはいる。安穏である。そして、得た力は何であったか。神仏の金剛界だった。即ち、宇宙有無開閉の力に参画することだった。その証明は何であるか。即ち、我が為に日月照らし、風が吹くのだった。或いは、美しい風景が待っているのだった。こうしたことは、他の認証を一切必要としない。冷暖自知の如く、唯、自覚自得するのみだった。この真実真理の純粋形態はどこにあったか。日本にあった。それが自然に最も恵まれた日本の黄泉の守護する存在理由だった。それを裏切っていたのだ。禅の精神は日本にしかない。禅の精神こそ己に恥じるところなきを以てする大和魂だった。日本の純粋精神だった。何時の頃からか、見失っていた。時は流れた。一部の成功したお金持ちを除いては、にっちもさっちもいかなくなった。お金は持っていても、心の不安は払拭できない。武士は食わねど高楊枝を知らない。ネズミ講はネズミがするからである。会社もネズミがすれば例えば出資法違反となる。だからといって、全ての会社がネズミではない。武士もそうである。すべての武士が笑いものにされる対象ではない。何を思い上がったか。私は落語は好きではない。さて、古来日本のあり方がある。それを忘れていた。西洋も行き詰まっている。救いはないものかと探していた。そしてそれを見つけたのである。すべてはそれを知らしめんが為だった。それとは何であったか。考えるべき時が来たのである。その発掘発見に成功した。その解答はすでに示した。今も昔も黄金の國である。そこに住む幸せの条件がある。それは何であったか。権力ではない。権力は市民革命によって克服された。武力ではない。武力は原爆によって克服された。金力でもなかった。今、それが克服されつつある。何故か。ある存在が貧窮の中で自覚した。すべてを投げ入れた。人生も青春も。財産も身体も生命も。そして得た境界がある。それは何か。即ち、我が為に日月照らし、風が吹く。人生の目的は何であったか。腐敗堕落ではなかった。過去より伝えられた自分自身を磨くことだった。そして自分が宝石のような人となって輝くことだった。或いは明星のように。しかし、何時の頃からか、それが見失われ、愚弄無視破壊された。欲望の実現だけが人生であるかのような時代となった。そうであるのに、それについて慚愧もない。少なくとも、昔の武士には精神修養があった。しかし、それも十把一絡げに笑いものにした。自分たちにその属性のない故であったのか。そして世は腐敗した。世はどのような色に染まったか。勝手が過ぎたとする所以である。世を腐敗させて罪がある。知的傍観者も共犯である。勝った官軍の帰結であった。それが人生であるか。方法を誤った。私は書き続けなければならないのだろうか。皆が気づくまで。今、私は何も気にならなくなっている。善も悪も。これが悪人正機説の真意だったのだろうか。或いは、我が為に仏は法を説くとする境界だったのだろうか。ふわりと羽のように軽い調子である。憂いはない。迷いもない。あるべき様ににあることで良いのだと思う。十分に孤独を旅してきた。