素晴らしい世界
自分が自分になること。それ以外に人生の目的はなかった。自分とは何であったか。過去より持って生まれたものがある。それを種として花と咲く。そして実となり、再び種となる。それを未来に託する。人生の全てだった。今世で果たせなかった部分は後世に委ねる。それで良いのだった。しかし、現実は自覚するまで地獄である。あるいは火宅である。しかし、自覚があるまでは、それを地獄とも火宅とも思わない。それが人生だと思う。そして脱落あるいは堕落する。そしてそれを人生だと思い、吹聴し、増殖する。それがテレビ芸能界の現状である。それを恥とも思わない。無理もない。彼らは知らないのだから。それにしては結果の重大性がある。あまりにも世の中はそれに染まってしまった。そして本来の価値は芽を出すことさえ出来なかった。それは、戦後あるいは維新後のことだった。本来日本はそうではなかった。そうではなかったのだが、それを知らない人たちは、それを愚弄した。あるいは破壊した。しかし、時は来る。その時が来た。古来大和復活の時である。歴史はそのように流れるのだった。日本は本来神風の吹く國だった。何故吹くのだったか。それも見失われてしまった。古来大和の秘密だった。しかしそれが顕現した。もともとあったものである。現れて当然だった。それは黄泉の守護するところだった。黄泉は実在するのだった。神仏も実在するのだった。それを無視した。よほど都合が悪かったと見える。好き勝手は出来なくなるのだから。しかし、それも時である。何時までもこのままにしておくわけにもいかない。あまりにも腐敗した。それは生命の目的ではなかった。人類として託されたものがあった。人類として幸せになるはずであった。それを裏切ったと言える。母は言った。殺される前に殺すとか、何かあったらやってやるとか、そういう心は自分にはないと。その瞬間になってどうなるかはわからないけれど、殺されてもそれはしないと。一般はどうだろうか。自分を基準に考えてるよね。だから言う。世の中の人間は、みんな極限状態になると、どうなるか。空腹状態で目の前に一個の食べ物があるとする。するとどんな淑女も取り合うというのが世間一般である。制度を利用して自分たちの利益ばかりを考えている。ネズミ講はネズミがするからであって、本来ネズミ講ではない。マルチレベルマーケティングという認められた流通形態の一つである。しかし、自分を基準に考えるよね。その上に、別の世界があることを知らない。天があることを知らない。さて、地獄に浮沈していたようだ。あるいは火宅の中にいた。何時までもそこにいる必要はない。地獄を地獄と知ればどうするか。火宅を火宅と気づけばどうするか。脱出である。そして安穏な世界へ行く。それが彼岸に渡るということだった。そして至るべき世界がある。それが衆生功尽きて大火に焼かるると見るときも我が此の土は安穏であるとする境界が開けることだった。そしてその世界に至っての安楽行だった。それはどのようにして至るのか。日々の思念のあり方である。安穏な思念のあり方がある。それが道元禅師のいう身心脱落脱落身心だった。火宅を脱したあり方である。それが全てはやさしさで解決するとする世界である。おだやかであって良い。焦ったことはない。どのような人生を歩むのか。どのような自分になりたいのか。持って生まれた自分はどのような自分であったか。あまりにも住めない世界があった。住むべき世界はなかった。無いのであれば作れば良い。これまでは自信がなかった。自信がなければ何をやっても駄目だ。自信があれば、何をやっても成就する。それが隻手の音だった。絶対の自信もある。それは何処より来るか。黄泉より来る。己に恥じる事なき大和魂より来る。しばらく忘れていた。そしてその復活の頃となった。それが私の生まれた意味だった。その開発に成功した。何が証明するのか。即ち、我が為に日月照らし、風が吹く。既に至った。これから為すべきことは何か。この情熱の火を燃やし続けることである。次の人が現れるまで。それは我が子かも知れぬ。この自覚を得るには試練があった。およそ想像を絶する。耐えるには難しすぎる孤独な試練であった。これがあったが故に至れた世界である。しかし、すばらしい世界である。醜いアヒルの子は自覚を要する。それまでは醜いアヒルの子である。世間は知らない。すばらしい世界があることを。叩けば開かれる。地上ヘブン=世界である。その世界へ至って、自分自身を知る。そしてその自分はどのようであるか。輝いている明星である。自分が変わることで世界が変わる。自分が世界に影響している。そのような自覚が来る。それが悟りだった。それを不遜とするか。事実である。しかし、世間は知らない。至って初めて知る。そして、大切なことは、だれもがその可能性を持っているということである。それが一切衆生悉有仏性。しかし既に犯した罪がある。その罪の故に見えない。聞こえない。唯、懺悔あらばゆるされる。黄泉の掟であった。示し申すべきところである。至り得て帰り来たれば別事無し。世間は知らない。知らないこと以てその慚愧もない。自分が自分となる。それ以外に人生の目的はない。過去からの魂の遍歴がある。それぞれの階梯がある。皆同じではない。それぞれ目指す方向がある。何処へ赴くのか。この世の終わりが終わりではない。それは新たな始まりである。来世はある。この世でどこまで至り着けるか。来世はそこより始まる。中原中也を裏切った小林秀雄がいた。来世でどのようなことになるか。純粋精神というものがある。往々にして世間ではいじめられる。いじめることをしないからである。立場が違う。あの世へ逝けば逆転する。何を思い上がっているのだろう。魂の遍歴は堕落過程ではない。何が蔓延ったのか。蔓延らせたのか。その罪は重い。事実として咲けない花があった。どうして咲けなかったのか。その純粋性の故だった。それを弱いと申すか。であるなら、本当の強さを知らしめられたいのだろうか。敢えて示さない力もある。それを知らない。知らずに大きなことを言っている。本当に思えばどうなるか。畏れを知らない。生かされているということを知らない。禅の力を知らない。過去より日本にのみ伝えられし力である。開発するべきはこれだった。即ち、宇宙有無開閉、生殺与奪自在の力だった。それは、大風をも制御する。過去より神風とされた。しかし、その本質は日蓮にとっては龍ノ口だった。バベルの塔は立ちはしない。ペリー来航の意味は何であったのか。物質と精神との戦いがある。しばらく前者の勝ちかと思われた。愚かな支配があった。戦争などしなくても良い。黄泉自然の力を前に何の意味もない。勝てば官軍かと思われた。そうでもない。負けて譲っただけである。主権まで譲りはしない。何を思い上がっているのか。あの世へ逝けばわかる。古来伝えられし勝ちがある。それを無視愚弄破壊した。その罪が問われている。事実として咲けない花があった。その花が咲いた。どのような花であるか。いずれ気づく。勝手が過ぎた。ゆるされはしない。ゆるしはしない。咲いたからには。恨むなという方が無理である。どこまで自分勝手なのか。嘘虚妄が何時までも通りはしない。天は全て見抜いている。心の底まで見抜いている。その罪が問われる。何故か。最後の切り札が自覚したからである。家伝直伝秘伝であった。その秘密が解かれた。一切大和の秘密であった。於呂かは自ら愚かであることを知らない。因って愚かである。愚かでありながら勝手な解釈をしている。読みし全真実真理に反する。反するのであればサンクションがある。今しばらくそれも現れなかった。今、現れている。何故か。或る自覚があったからである。いつまでも誤魔化せはしない。過去からの魂の遍歴の格差歴然としている。その歴然を無視した。あるいは愚弄破壊した。いつまでも勝手は通らない。あるいは、通さない。何時までもわからぬと見える。仕方ない。至っていないのだから。至っていないのに、大きなことを言う。黄泉の守護するを知らない。知らずに勝手する。危険である。その危険を知らない。あまりにも世の中は腐敗した。住むべき世界はなかった。よほどのことである。ここまで言い切れるか。何を以て言い切れるのか。絶対の自信を得てのことである。それは何か。黄泉の守護である。黄泉の意思である。即ち、我が為に日月照らし、風が吹く。生まれたときからそうだった。しかし、しばらく気づけない自分がいた。当然である。世間に愚弄され、無視された。あるいは破壊された。気づくべくもなかった。あらゆる世間の解釈を超えている。しかし、これが真実真理であり、事実であった。何を勝手し来たるか。主権在民。国民主権。主権まで譲った覚えはない。これより自分が自分となる。本来の自分として結晶する。おだやかであって良い。ダイヤモンドの如くに。人生の目的は自分が宝石となって結晶することだった。長い魂の遍歴を経てのことである。自分の属性は何であったか。持って生まれた属性は何であったか。日本は黄金の國である。今も昔もそうだった。しかし、今、日本はどのようであるか。何が蔓延ったのか。後世のために何を伝えおくべきか。自己の開発に成功した者として。一里塚として。それは人間の可能性である。魂の至るべき目標である。神風の吹く日本である。世の中は腐敗する。往々にして嘘と暴力が支配する。しかし、それ故の可能性である。蓮華の前に化生ということがある。蓮華は泥より咲く。咲けば良い。泥が無くては咲けない宿命である。そして、宇宙においては明星となる。そして輝く。輝き続ける。その可能性は0.1%にも満たない。その他は暗黒である。暗黒の中で光る。即ちスター達である。富士は何故高いか。裾野があるからである。富士は何故美しいか。日本の山であるからである。日本とはどういう國であるか。世界で最も四季の咲きそう國である。四季とは自然である。あるいは神である。美しい風景が待っている。人生においても同じである。やがて、誰もが至る。それを無視していた。あるいは破壊していた。そして蔓延りたる者がいる。心配無用。自然が淘汰する。黄泉の定めである。日本は神の住む國である。昔よりそうである。しばらく顕現しなかった。しかし、古来神の守護し給う國である。それが大義名分であった。明治はペリー来航に乗じた。そしてその課程において古来大和を裏切った。そして西洋化を急いだ。故に神は姿を隠した。第二次世界大戦においても神風は吹かなかった。古来大和の戦いではなかったからである。西洋化の文脈においての戦いだった。大義名分がなかった。そして時を待った。十分に腐敗しなければならなかった。そして時は満ちた。神の現れる時節を迎えた。天の岩戸は開かれた。それは自覚するときだった。神とは自然であり、黄泉であった。やがてそこに至る。そこに気づく。それが悟りだった。悟りは日本にしかない。過去からの約束だった。宇宙と魂は連動している。思いは現実化する。この世は己の鏡である。あらゆるサインとして。そのサインを掴めるかどうか。そして祖先黄泉の守護がある。導きがある。それを観じることができるかどうか。そこが修行である。あるいは青春である。汚れることが青春ではない。人生ではない。腐敗堕落が人生だと思っている大人が多い。そしてそれを吹聴する。増殖する。汚れた大人に用はない。若者達よ、目覚めよ。道を誤ること勿れ。道標が見えるか。己の魂の導きに従うが良い。その示す方向を信じて進め。黄泉自然生命黄泉祖先の守護がある。その時、人生は楽しい。お笑い芸人の笑いが笑いではない。悲しい目をして笑っても仕方ない。真実真理を見出し、神仏に受容祝福され抱かれて、……。