愛する人との食卓

2008年08月22日


  • この世とは何だったのか。どうして生まれていたのだったか。この人生は何だったのか。何を求めていたのか。本当の幸せとは何だったか。知る頃となった。真実の教えはある。真実のビジネスもある。それも見つかった。しかし凡そ世の常識を超えている。なかなか聞いてもらえない自分がある。これからの課題である。信じて貰えるに足りる自分であるのかどうか。その辺りを見直す必要があるだろう。代償は大きかった。人生と青春は失われたかと思われた。十九の春はそれほどの津波だった。何もかも失った。亡霊のような人生だった。まるで倩女離魂である。しかしどんな悲しみにもそれと同等か或いはそれ以上の喜びが宿されている。救いはあるよ。失ったものが大きければ得るものも大きい。寄せる波と引く波である。人間である限り悪である。日々不善を念ずる。放逸の人生がある。悪から善に切り替わる事は出来ないものなのだろうか。誰もが切り替わる事が出来るなら切り替わりたいと思う。しかしその方法が解らない。無理もない。探そうともしていない。そして腐敗堕落が人生だと思う。自分の考えが正しいと思う。だが、真実の教えがある。それに触れる事で何か感じる。そして今のままでは救いがない事を知る。そうしたものだった。何が真実で、何が善だったのか。それは何処にあるのか。探すしかない。そしてそれを伝える人が現れたなら、素直に耳随う事だ。何時かそれはやってくる。聖者が町にやってくる。普通の人では至れない。どんな人間も人間である限り限界がある。しかしそれをも探し求め、確かめ、経験し、信じるに至る人もある。愚かでは至れない。人類は本来野蛮を目指しているのではない。限りなく向上したいと思っている。それが人間だった。そして至ったのかも知れない。精神的な世界を彷徨った。見えない世界を確認した。見るべきは見た。知るべきは知った。学ぶべきは学んだ。これより実践段階に入らねばならないのだろう。見える世界と見えない世界で実相である。終わりは終わりではなく、亦始まりである。これが仏さんの説く第一義空だった。これを知れば、この世で凡そ悪は為せない。悪とは唯自己利益追求である。つまり、他を犠牲にして顧みない。欺罔を当然とする商人根性がそれだ。日本も行政を含めてそれに染まってしまった。人間とは悲しいね。そして教えには真実の教えと方便の教えがある。前者には善の結果がある。後者にはない。善は仏さんの所にしかない。これまでの教えは方便だった。真実の教えが現れるには時を要した。そしてその時が来た。第一義空より始まって、やがて芽が出て葉が出て花が咲いて実と成る。実となってはじめてその種を知る。自分とは何だったのか。日本の基としての自覚が来る事もある。誰もがその可能性を秘めている。それが一切衆生悉有仏性。ところで、第一義空から始まるとしても、そしてそれは既に生まれた時には前世から始まっていたとしても、それが成長していく過程で、だんだんと様々な属性と自らの行いで悪に染まっていく。そしてやがて不可議となる。その時は議論しても仕方ない状態となる。それが世の大人の姿だ。自分が正しいと思う。教育が届かない。犯罪を犯す者に対して処罰で臨むしかなくなる。自分が正しいと思っているのである。その傾向が早まった。今、子ども達が既に不可議に陥っている。学級崩壊などがそれである。誰が悪いのでもない。お笑いが悪いのでもない。そういう時代である。そしてどうなるか。やがて終わりが来る。そして亦始まる。自然の摂理だよ。その時にどのような自分だったのか。それからどのような自分になりたいのか。潮時だよ。一つの時代が終わろうとしている。それでカオスとなる。それが空だ。何をいっても無駄に見える。しかしそうでもない。種がある。未来に蒔くべき種はどれか。自分は未来に生きる事が出来るだろうか。試されている。さて、これからいよいよ人生の春となった。種まきの頃である。長い冬だった。冬来たりなば春遠からじ。必ず春は来る。生まれた限りは。それぞれの人生がある。安楽な日々が待っている。幸せはある。何を代償とするか。支払った代償が大きければそれだけ得るものが大きくて当然である。真実は何か。知る頃となった。本来どのように生きるべきだったのか。既に処したる人生がある。過去がある。前世がある。代々の祖先がある。そして今がある。人間としての思い上がりが裁かれる時節となった。未来は明るい。明るい未来建設の時である。新しい時代の開始である。新々大陸発見。それは21世紀の約束、笑顔とやさしさで全てが解決する心の大地。愛と平和の地球である。愛とは何だったのか。全ての動植物及び岩石も喜ぶ宇宙の周波数。彼には才能もあった。能力もあった。誰もが認めるところだった。しかし埋没を余儀なくされた。十九の春はそれほどの悲劇だった。全て失ったと思われた。しかしそうでもなかった。人生或いは生命としての不思議である。彼は諦めていなかった。何を諦めていなかったのだろうね。既に記された。精査されるが良い。彼の自覚は何だったのか。象牙の塔の中にいたのでは至れない。世界を旅する事だけが旅ではない。彼の旅は何処だったのか。そこよりこれほど明確に帰って来た者は殆どいない。何を見つけているのだろうね。彼の話に耳を傾けては如何か。決して裏切りはしない。いえば不遜だといっていた。知性の勝利だよといっていた。自分が変わる事で世界が変わる。悪いのは全て自分だった。彼は何を背負って生まれていたのだろうね。彼の宿命があった。彼でなければ解けない謎があった。その使命は果たしたという。それだけの能力は賦与されていた。膨大な勉学学習もあった。そして彼はいう。日本は大丈夫だよ。良かったね。解決したようだ。日々証明がある。彼は孤独だった。何故だったのだろうね。気づけば彼の故郷は失われていた。彼の眷属はいなかった。その理由を探した。そして見つけたのだった。それが何であったのかはここでは割愛する。そして彼は飛び込んだ。そして救われた。どういうことだろうね。既に何処かに記した。彼は元気だよ。彼は見捨てられた。彼を理解する者はいなかった。申し訳なかったね。彼こそ秘密だった。どういうことだろうね。窓の外は雨が降っている。井伏鱒二氏の『山椒魚』がある。山椒魚は特別天然記念物であり、広島県に生息する。作品の中で、最後の行は削られている。それは何だったのか。「もう恨んでいないよ」。般若心経の最後の所にギャーティ、ギャーティ……というのがある。呪といわれている。翻訳が出来ないので、音のままである。敢えてその意味は何だったのか。それは、いけり、いけり、われはいけり、辿り着いたようだ。此処がゴールだった。彼は今、全てに感謝している。これからどのように生きていくべきか。我、かくのごとく聞きき。そして歓喜奉行しきき。救いとはそれだった。福音だね。この世界は素晴らしい。彼の探していた道は開かれた。世界が待っていた。黄泉も喜んでいる。誰もが幸せになれる。なっていい。幸せの要件は確定した。権力ではない。お金でもない。地位でも名誉でもない。それは何か。探すと良いよ。彼はいった。広島に錦を飾ったよ。広島こそ秘密だった。アメリカはそれを探り当てた。しかしその真実は隠されていた。頼朝は伊豆に流されていた。家康は時を待った。何の時を待ったのだったか。属性のない歴史学者の解釈の及ぶところではない。自覚の時を待った。そして征夷大将軍となった。大義名分、神風の吹く。黄泉の受容祝福守護するところとなる。400年周期説は旧約聖書に秘められていた。旧約聖書の目的は庶民の解放だった。それは奴隷解放及び女性解放の次に来る。愚かさと野蛮に用はない。勝負にならない。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本秘密の種である。それは遺されていた。その謎を解くには知性を要する。孤独な長い年月の作業を要する。数学の難問を解くに等しい。自分を信じて解き進む。原爆の火を以てしても根絶やしに出来ない。その花が咲いた。咲けばいい。咲くまでが試練或いは青春である。世間は自分たちが火宅の中にいる事を知らない。それが現実であり、人生だと思っている。救いがあり、安楽な世界があるのにないと思っている。知らない事を以て否定する。自分の考えが正しいと思っている。子どもの頃の成績の差は何だったのか。社会に出ればそのようなものは関係ないという。誰が言い始めたのか。責任はとって頂く。それでどのような社会となったのか。巧妙な支配である。何時までもそれは通らない。カンニングを要領として閥を成した方々は帰るがいい。嘘及び暴力は無価値である。世の財閥及びセレブ成金スノッブ諸君、方法に於いて悔いはないか。人生に於いて不安はないか。人生に於いてゴールは何だったか。廓然無聖、一切の憂いがない。裏切り者はゆるしはしない。軽薄の世は終わった。宣言である。これよりテレビタレントのカラーも流行の色も総替えである。本来日本の感性の色がある。音がある。本来知性の受忍限度を超えた。勝手が過ぎた。黙っている事を理由にあまりにも配慮がなかった。代々祖師は「一」を挙した。それは何を意味していたか。或いは伝えていたか。知る頃となった。本来日本は卑弥呼の系譜である。空海もその本質はシャーマンだった。故にその属性のない最澄には空海の密教が解らなかった。何を以て金剛杵とするか。それは打ち出の小槌であり、アラジンの魔法のランプである。或いは如意棒である。それを以て「一」を挙す。するとどうなるか。黄泉が動く。これが古来大和の秘密である。即ち神風も吹く。暫く吹かなかったね。何故だろうね。黄泉の受容祝福守護がなかった。即ち大義名分がなかった。明治以降の歴史の示すところである。祖先が認めていなかった。無理もない。裏切っていたのだ。本来日本はどういう國だったのか。思い出す頃となった。詳細及び全体の趣旨は何処かに既に記した。証明も済んでいる。故に黄泉も喜んでいる。愚かな支配は終わった。精神及び知性の秩序の回復である。日本は歴史が古い。此処400年来の西洋パラダイムにこのまま飲み込まれて腐敗し、共に沈没するわけにはいかない。腐敗も必要であった。故に真実が明らかとなった。これよりどう生きるべきか。時代の基は定まった。さて、この力を得て征夷大将軍である。刃向かえはしない。黄泉が守護している。黄泉も待っていた。一切大衆が救われる時が来た。真実の仏法も顕説されている。仏の宣言はビッグバンに等しい。宇宙がその方向に動き始める。示し申すとはこれをいう。即ち、大威神力である。知らなかったね。しかし真実である。知らずに勝手したね。救いはある。赦しもある。どこにあるのか。どうすればいいのか。探すしかない。如来は如来でなければ解らない。あやまるべきだよ。お金は大切だね。命を削った代価といえる。そして日々食べている。それは他の命を頂いている。まともに考えると拒食症になってしまうほどの残酷な行為を平然と行っている。食べる事自体、罪である。しかし己の生命を維持する限りに於いてゆるされているのだろう。生命体として目指すものがあるからである。限りなく進化する。何処へ向かっているのか。貪る事はゆるされていない。殺戮などもってのほかである。誰もが生きたいと思っている。殺戮の根拠は何処にもない。仏の説く大宇宙の法則に因果応報という事がある。認めたくないね。しかし法則である。自分がした事及び思った事は自分の身と心に帰ってくる。前世がある。過去の罪が今、帰ってくる。だから思うようにならない。本来日本はそれを知っていた。ところが今、テレビ界は何をしてるのだ。グルメと称して何を一般化したのか。世のセレブ諸君の罪は重い。背後に犠牲がある。それを幸せとはいわせない。喜んで命を捧げる事もある。喜んで食べられる事もある。どういう時であるか。意味を知り、愛されている時である。因縁の解決はある。その時、幸せである。これからどう生きるべきか。幸せに生きる。必要なものが必要な時に必要なだけあればいい。小鳥に日々の食は与えられている。この世は足りている。誰かが貪れば何処かで欠乏する。誰が貪る事を正当化したのか。カルバンであるか。世の大富豪も大富豪となってお金が目的ではなかった事に気づく。やがて富は世のため人のために分配される。アンドリュー・カーネギー氏もそうだった。目指すべき食卓は何か。愛する人との食卓であり、家庭の団らんとしての食卓である。庶民の解放は此処にある。あらゆる制度の目的及び根拠も此処にある。ビジネスもその為にある。未来は明るい。誰もが幸せである明るい未来のビジョンはあるか。新しい時代である。その扉は開かれた。彼はいった。仕事はしたよ。北一輝氏はいった。全うに生きて生きられないならお前がその第一号になれ。父はいった。お前は大丈夫だ。私の子だ。私もお前と同じだった。古来卑弥呼乃系譜邪馬台国大和正統日本不滅。