困苦から逃れて

2013年12月15日


  • 何故苦しむのだったか。困るのだったろうか。原因があるからである。種を蒔いているからである。自ら蒔いた種は自ら刈り取らねばならない。法則通りだった。そして天は自ら助くる者を助くとする。仏も気づいたのはそれだった。それが一切種智惠だった。既に蒔いた悪の種がある。その結果は甘受するしかない。そして二度とその種を蒔かないことである。次に蒔く種は何だったのだろうか。戦後が反省されつつある。テレビも映画もどこか文化としてウソとバイオレンスに憧れていなかったか。それが生きることだと思っていなかったか。楽な境涯がある。時代は豊かになってだれもが楽に易易と暮らすことができる世の中となった。どんな障害があってもである。学校の勉強ができなくてもである。問題行動等、新たな悪の種を蒔けばそれは別論である。社会に秩序がある。それを破れば犯罪である。世界にも秩序がある。それを破るとどうなるのだろう。戦争は以ての外である。現代戦争は無価値となっている。権力は既に市民革命によって克服されている。豊かさには物質的なものと精神的なものがある。庶民の解放となった。庶民とは善良な市民である。


人生はいつか喜びの日々となる

2013年12月15日


  • 人生はいつか喜びの日々となる。苦悩の英雄ベートーベンもそうだった。釈迦は生老病死の苦しみから逃れようとして修行したのだった。親鸞に至っては悪人正機説となった。人間の善とか悪とか、仏の前では同じである。善であろうが悪であろうが生きとし生けるものをすべて救おうとするのが弥陀の本願である。それを先ず、信じることから始めるしかない。そしていつかそれが実体験となり、自分にとって神秘が事実となる日が来るのである。その時、救われている。知らないことを以て否定することのできない真実がある。


人間として生まれたからには

2013年12月15日


  • 人間として生まれたからには、必ず生きることができる。小鳥に日々の食事が与えられているように。読書は眼光紙背に徹して行間を読む。文章が著者の声となるまで。息づかいも感じられてくる。源氏物語がすばらしいのはその文体である。個人の尊厳とそれに基づく諸価値がある。戦後学んだ諸理念が日本に根付き、開花結実した。世界で今、最も自由で平等な国は日本であると言えるのではないだろうか。これを以て戦後、日本に託されていた約束と使命を果たしたと言えるだろう。世界は待っていたのだった。そして時代は豊かとなり、だれもが楽に易易と暮らしてゆける時代となった。時代はシフトし、第4の波である。創造化の時代となっている。その準備が調ったようである。先ず、日本から始めよう。そしてそれを世界に発信するのである。馬鹿になることが幸せではない。それでは幸せになれない。だれもが救われる時代を迎えている。だれもが幸せであるとき、その中の自分も必ず幸せである。自己利益追求で何をしてきたのだったか。大反省の頃となった。そして始まる。


敵を味方につける

2013年12月13日


  • 敵を味方につけるということがある。最終最後最大の敵は自分自身だった。仮想敵国などではない。それは過去の因縁と言える。過去からの恨みであり、嫉みだったのだ。それが時を超えて仕返しに来ている。そうであるならば勝てない。これをどのようにして解決するのだったろうか。負けるわけにはいかない。それで味方につけるのである。それは相手の存在を認めることだった。彼らは認めて貰いたいのだった。それに対して戦おうとするから、ますます恨みと妬みは増幅する。エネルギーを得るからである。受容すればいい。そうすれば彼らは消える。むしろ味方となる。その方法は何だったろうか。それが例えば白隠禅師のいう隻手の音を聞くということだった。こうしたことはないと思う。それで否定する。あるのだった。自分の力ではどうにもならない。だから、仏の威力を借りる。そして解決がある。それは、本当だった。そして自由となる。自分の思い通りとなる。それが幸せだった。仏と仏との約束がある。限りない福を授けよう。福とは、それだった。六祖慧能の話がある。彼が若い頃、山で薪を集めて生計を立てていた。家には母がいた。薪を背負って本を読んで勉強していた。その姿を見たあるお金持ちが彼に本格的に寺に入って勉学するように言った。しかし、彼は母がいるから無理だと断った。お金持ちは彼の母のことは心配するな、自分が面倒を見ると伝えた。彼は寺に入った。入ってしばらくは米を搗いていた。寺の師匠は五祖だった。ある日、彼に尋ねた。修行はどの段階に進んだか。彼は答えた。米は搗けています。あるレベルに至ると肝胆相照らす。言葉の背後の魂のレベルがわかる。オーラでも出ているからだろう。白隠禅師も修行中に大きな悟りを得たと思って、師匠正受老人に対面を願った。しかし正受老人はそれを許さなかった。むしろその高慢な鼻をねじ上げてたたき捨てた。白隠は驚いた。その後、二度目の悟りがあった。そして正受老人に駆け寄った。喜びの満面の笑顔だった。正受老人は涙を流して共に喜んだ。跡継ぎができたのである。一箇半箇を打ち出すということがある。師匠の務めである。さて五祖もそろそろ引退する頃だった。そのためには、跡継ぎを打ち出さねばならぬ。それで何百人といた弟子たちに試験を課した。自分の心境を文字にして貼っておくように、と。寺には神秀という首席と目されていた弟子がいた。だれもが跡継ぎは神秀だと思っていた。次の朝、一枚の貼り紙があった。鏡が曇らないように台から磨かねばならない、といった趣旨だったろうか。いずれにしても日々努力を要するといった内容だった。弟子たちはそれを見て賞賛した。そこに慧能がやってきた。そしてその貼り紙を見て書いた。自分には鏡も台もない。だから努力といったことも必要ではない、といった内容だったろうか。弟子たちにはわからなかった。これを見た五祖は、慧能こそ跡継ぎであるとわかった。それで密かに慧能に法を譲った。そしてその日の夜の間に、釈迦伝来の鉄鉢を持たせて逃がした。翌朝、寺は大騒動となった。弟子たちが騒いだのだった。弟子たちの中に、大将軍だった者がいた。慧能が宝を持って逃げたと知って追いかけた。もとより将軍、あっという間に追いついた。そして鉄鉢を返すように迫った。慧能は鉄鉢をその場において、法は鉄鉢ではないとばかりに、持って行くように告げた。将軍はそれを持ち上げようとするが動かない。法力を感じた将軍は教えを乞う。すると慧能は言った。不思善、不思悪、その時のあなたの境涯はどうであるか。将軍も修行をしていた。それでにわかに悟ってしまった。時節因縁が熟したのだった。それで将軍は慧能に弟子にしてくれ、と頼んだ。慧能は言った。あなたも私も五祖の弟子である。だからあなたの師は五祖である。このような話がある。敵を味方にする方法として、善をも悪をも思わない。鏡も台もない。すると敵はいない。相手をゆるすことである。悪であっても。その時、自分もゆるされている。これが隻手の音を聞くということだった。何をしてもいい。思い通りとなる。不思議な力がある。大自然の力である。あるいは、宇宙の法則である。馬鹿にならなくていい。馬鹿では永遠にわからない。自分の過去に過ちがある。それより仕返しがやってくる。仕返しには勝てない。味方につけるしかない。