不思議

2011年12月03日

  • 世の中に不思議がある。知る人にとっては事実だけれど、知らない人には神秘である。往々にして知らないことを以って否定する。あるいは貶める。都合が悪いからだった。それは眞實に属する。それを知って人生は安楽となる。それって何だったのだろうか。私たちは独りではない。魂と宇宙はつながっている。眞實は神仏の実在とその邂逅だった。しばらく見失われていた。物質文明偏重の時代だったからである。しかし何時か時が来る。誰もがそれを感じ始めている。何時の頃からか私たちは間違った方向に進んでいた。大反省の頃となった。インド哲学において神の属性に二つある。創造力と普遍の愛だった。しかし人間においてそれらは反力として機能する。物質を追いかければ追いかけるほど愛より遠ざかる。物質的なものは自分のためにする。普遍の愛はみんなのためにする。家族を捨てて子どもを見捨てるとどうなるのだったか。そして不倫は文化であるなどと吹聴した。大ばか者の時代だった。子どもたちが壊れている。当然だった。私たちは幸せになるために生まれている。それはある。創造性と普遍の愛のバランスが崩れている。かつて王権神授説もあった。それはそれで正しかった。しかし、何時かギロチンの露と消えた。平家もそうだった。秀吉もそうだった。物質的なものの代表がお金だった。お金で愛は買えない。さて、どうするのだろうね。各各処したる人生がある。どのパラダイムに乗っていたのだったか。それを払拭して新しい時代が始まっている。世の中に不思議がある。私たちは独りではない。つながっている。故に、秘密の通信もある。神仏が喜ぶ。そして大自然が証明する。それが廓然無聖だった。あるいは日月照らし風が吹く。既に四聖は気づいていた。あらゆる古典のテーマがそれだった。知らなかったね。知らずに否定してそれはないと思った。残念だったね。それはある。二千年来の物語が完結した。勝敗は決した。天下を取るとはこの意味でのことだった。権力ではなかった。武力でも金力でもなかった。時代は物質から精神へ回帰する。あるいはアウフヘーベンである。陰陽のさらに奥に太極がある。それが禅僧の挙す「一」だった。人間は万物の霊長である。人間の脳には三階層ある。爬虫類の脳と哺乳類の脳と霊長類の脳である。何を以って霊長類とするのだったか。人間には万物の霊長として神の七つの力が賦与されていた。人間を通って神となる。仏となる。時を要する。属性を要する。最後の要件は自覚だった。そうであるのにこの霊性を否定していた。物質的な便益が幸せだと思っていた。それで自己利益追求こそ幸せへの道であると錯覚した。そしてどうなったのであろうね。どうにもならなくなった。「人間はパンのみにて生くるにあらず」を思い出す頃となった。これに気づいてあらゆるスターはスターとなった。レッド・ツェッペリンの『天国への階段』もそうだった。開発するべきは霊長類脳としての大脳皮質だった。知性回復。それは霊性を含む。霊性こそ神仏の属性だった。私たちは知らなかったのである。そしてますます不幸に赴いた。海難事故を避ける最後の手段は面舵一杯である。舵は切られた。幸せの方へ。眞實の方へ。私たちは本当の幸せを求めて歩み始めたのである。それは見つかった。新々大陸発見とするところでる。新しい時代である。未来は明るい。時代は失敗した。故に新しい始まりとなった。猛反省して第一歩を歩み出そう。パスカルは神の愛をアガペとして見抜いていた。そして言った。「人間は考える葦である」「その葦を通して宇宙を観る」。何時か涙も涸れる。穏やかな笑顔がやって来る。眼が輝いている。存在が輝いている。私たちは独りではなかった。導かれている。幸せの方へ。それが聞こえるだろうか。確かな道標として。それが白隠禅師のいう隻手の音だった。そして観音菩薩となる。一切大衆を救って世間を遊行する。そういう時代が開かれました。