もう始まっている
2011-12-06
時は来たようだね 眞實とは何だったのだろうね 彼を悲しませるべきではなかった どういうことだろうね 彼こそ彼だった 彼の人生は無意味ではなかった 黄泉が守護している 既に事実である 本当の実力とは何だったのか 我の力にあらず 唯仏の威力による 見えない世界に認めてもらえることだった その要件は何だったのか 既に明らかとなっている 私たちはあまりにも知らなかった いつか見失われていた 明治以降及び戦後は殊の外困難だった その間 何が蔓延ったか 何時か時が来る これより思い知る もう始まっている 本来日本の秘密に属する
茶番は終わっていただく
2011年12月06日
「ともあれ、孔子の憧れる周文明が、前にも触れたように、周王家永遠策の布石であったとする推量からすると、そこには、意図すると否とにかかわらず、貴族的な権力主義が基盤となっていなければならないはずである。「……儒教は余りに権力者の欲望を寛大に認め過ぎる……」と、宮崎市定博士のいわれるのも、「……易は帝王の学なり……」と太鼓判を捺して推奨する根本通明博士の思想も、その表現と立場は異なってはいても、しょせんは孔子学の正鵠を射ているものと思われる。東洋運命学は、この権力主義、貴族主義に低頭しつつ哺育されてきたものである。凄惨な権力、金力争奪の世間欲を、神の名において認め、民衆には諦めと奉仕を、とにかく、なにがなんでも権力、金力を手中にした者には、天命なる認定証を発行したのである。」(文殊閣刊、祐川法幢著『運命学の運命』p72)
「要するに、理屈はどのようにつけようと、東洋運命学といったようなものは、以上のような論理で発展してきたのである。”天帝”なるものも、思えば堕落したものである。「易は帝王の学なり」ということが、孔子の思想に基づく「易経」の学を指してのことであるなら、なるほど、帝王などというものに疑念を持てないほど洗脳されている人にとっては、まことに都合のよい、耳よりな学問である。帝王は別格であって、現人神であるという学問だからである。」(文殊閣刊、祐川法幢著『運命学の運命』p73)
さて、こうした指摘に対してどのように認識するべきなのだろうね。かつて王権神授説があった。それはそれで正しかった。しかし絶対王政はやがてギロチンの露に消えた。その頃、啓蒙思想家がいた。それは時代のエートスだった。ロック、モンテスキュー、ルソーはその代表に過ぎない。市民革命も名誉革命を通っている。さらにかつて、都合が悪いというだけで、キリストをも処刑した。眞實は何か。神仏は実在する。日本には卑弥呼の系譜を正統とする理由がある。聖徳太子も空海もそうだった。道元も一休もそうである。知らないことを以って否定できない。今、何が支配しているのであるか。権力でもない。武力でもない。金力である。それは物質文明だった。科学は物質文明に属する。カルバン以降、金力の支配が始まった。産業革命を経て、高度資本主義と成っている。そして限界に至ったのである。何が言いたいのだろうね。わかる人にはわかるよね。大学を卒業して、或る刑法及び刑事訴訟法の教授にお世話になった。その頃、1時間余り、電話でその日の講演内容を話すから聞いてくれといわれた。内容は刑罰権の本質と、条文解釈方法論だった。個人レッスンだった。その時、刑法がわかったと思った。それは何を以ってであるか。刑罰権の本質とは何だったのか。ここでは割愛する。ヒントとしてある日突然シンスケ等何人かのお笑い芸能人が何故更迭されたのか考えると良い。はっきり言いおく。世界はあなた方の世界ではない。何を勘違いしたる哉。これより思い知る。世界に秘密がある。秘密を解いてかぐや姫は月に帰った。『ロード・オブ・ザ・リング』のエンディングもそうだった。幸せはある。誰もがそれを求めている。いずれにしてもその教授が言った。君は大金持ちではないか。知らなかったね。ここまでである。茶番は終わっていただく。知らないことを以って貶めた。欺いた。裏切った。そしてどうなったのであるか。もはや知らなかったなどと言わせない。彼は生きていた。そして帰って来た。その間、デタラメが過ぎた。これより眞實開示である。もはや疑えなくなった。
日面佛、月面佛。五帝三皇是何物。二十年來曾苦辛、爲君幾下蒼龍窟。屈。堪述。明眼衲僧莫輕忽。(碧巌録)The sun and the moon. Each of them is boohda. That has a long life. This has a short life. I've been under the hard life for thirty years. I 've been into the cave of the blue dragon for the truth several times. I found it. The man who has clear eyes cannot deny me.
貧賤という環境
2011年12月06日
「学に造詣することは、武力のみや、経済力のみに勝れるための苦心などとは比較になるものではないと思う。まして、貧賤に生まれ合わせた者にとってはなおさらである。ところが、この貧賤といわれる環境の中で刻苦勉励して学ぶ者でないと、ほんとうの学問というものは成り立たないのである。そのことは歴史が教えてくれている。釈迦も王宮を去ることによってその学は成るのである。今日、学問の大道というものは、こうした人たちの学問によってのみ支えられているのである。帝王家や、貴顕富者の子弟に生れ合わせた者は、学問には容易に接することができるのですぐ学識者には成れるが、学問そのものは容易にわからないのである。それというのは、学問の真髄でなければならないところの、人生というものを知る機会が乏しいからである。まことに天理の妙で、”天は二物を与えず”である。貧賤の環境もまた、大いなる恵みの環境なのである。さて、こうしたわけで、孔子もまた、偉大な学者となるには、格好な環境に生まれ合わせていたわけである。それとともに、偉大な学者であるほどに、その学の実践ということになると、一層そのことは容易ではない。貧賤という環境は、そうした試練を与えるものなのである。」(文殊閣刊、祐川法幢著『運命学の運命』p71-72)