冒険論

NHK「台地の祈り」という曲をバイオリンで聞きながら 冒険論
冒険家風間さんが骨折した。複雑骨折だった。アフリカに入って、突然それは起こった。5m先から車両が現れた。全て覚えていた。気を失ってはいけないと思った。足下から心臓を超えて突き上げるものがあった。目まで来たら気を失うと思った。必死でこらえた。気合いだった。救急車が来るまでは、と。氏のぎりぎりのサバイバルだった。複雑骨折。全部終わったと思いながら。辺りには砂の採石場があった。その車両だった。4日目のことだった。
初めにかつぎ込まれた病院がよかった。ダイアナ妃も入院した有名な病院だった。幸運の一つだった。転院してからが亦よかった。西洋的治療法では切断もあった。そこでの治療は、戦前からロシア(東)で行われていたものだった。骨折した瞬間に歩ける理論であった。一発でよくなった。霧で見えなかった前がぱっと見えた。状態が明るくなった。加わってくれた先生がよかった。再び歩けると思った。
この怪我が自分の個性であることを諦めた。これを飲み込めたときに腹がくくれた。元気になれた。吹っ切れた。家族。先生。社会のお陰だった。退院したとき、生命の生還であった。骨折はそれだけの意味がある。今でこそ言えるけれど。火中にあるときはどん底だった。顔も真っ青だった。家族はそれに驚いていた。
風間さんの冒険の原点は少年の頃、1月10日のことだった。消防団の出初め式だった。梯子でのパフォーマンスを見たときだった。自分でもしてみたいと思った。しかしその時思ったのは、標高500mの裏山をバイクで登ることだった。急峻な山で道はない。だれもしたことのないことだった。子供の頃、お弁当を持って登ったり、チャンバラをした山だった。バイクが好きだった。機械が有難い時代だった。モーターがある。できないことを実現してくれる。5cmを登るのに悪戦苦闘だった。午後3時頃から始めてどのくらいかかっただろう。突然まわりがぱっと明るくなった。明るくなったことで頂上だった。その時のパノラマは覚えている。眼下に車がぴかっと光る。遠くに富士も見えていた。原点はこの時の感動だった。達成感だった。ピアノに感動した人は必ず偉大なピアニストになるように風間さんはその時バイクだった。はじめに性格があり、そしてアイデンティティとなる。風間さんはバイクが好きだった。バイクに惚れていた。
今回富士山に登った。まだそのような状態ではない。松葉杖で登った。今回はゆっくり登った。何時か頂上は極まる。今に於ける富士の意味。人生に重複する意味がある。91年南極点到達。その時、マイナス50度だった。目は凍りはしない。私たちは氷河期を経ている。粘液が目を護ってくれた。50を超えてこれから人生を折り返していく。新しい風が吹くかと思った。富士は3776m、日本最高地点である。高いところがあれば高いところへ到達したい。
日常がよければ夢に向かうことができる。日常の暖かさが自分を押してくれる。冒険ができる。到達して思うのはすぐに家に帰ることである。帰りたいと思うのである。家族は日常の代名詞。家族へと帰る。家族は社会の縮図であり私である。日常を棄てるのは逃避。これはダメである。日常あっての冒険。夢に向かって進むことができる。
今の自分を自分の中でみとめていく。生きる勇気が湧いてくる。足二本だけでなく手も使って登る。その手は松葉杖でもいい。手も足であることに気づく。苦の向こうに何かある。苦しいことはこの意味で良いことである。帰るべき日常を知ること。これが生きるということであった。冒険ということの真の意味を知ると、ロックは聞けてもフォークは聞けない。(2005/10/06 11:31am)