山田無文の世界

  • 生まれた以上は人間は必ず生きられるに決まっておる。働いたら儲かるに決まっておる。
  • 天を信ずるというか、大自然の摂理を信ずるというか、全て一切を神仏のみ心に任せてしまって、生きるという問題にあくせくせんことであります。
  • 生まれた以上は必ず生きられるもの、生きられなければ死んだらいいじゃないか、バタバタすることはない。
  • 一切は空なりと達観して大自在を得られるのが文殊の智慧で、森羅万象そのままを実相と観察して、遍く衆生を済度されるのが弥勒の慈悲であります。
  • 般若の智慧がわかるとは全ての対立的現象から解放されることです。
  • 風規を露さず。風規は、風格とか規則とか常識の世界であるが、その常識の世界にはかかわらずして、もう一つ高いところの真理を、そのまま丸出しにして示しておられるのである。皆に分かるようにというこだわりは要らん。分かっても分からいでも、絶対のものをここに提しておるのである。
  • 鍛冶屋が刀を鍛えるとき、焼いては叩き叩いては焼き、そして水の中にいれて製錬するように。
  • 上求菩提下化衆生。上はどこまでも高い真理を求め、下はどこまでも民衆に奉仕してゆくのが菩薩道であるが、しばらくその下化衆生は第二において、まず向上である。どこまでも精神の高さを究めていく、それが修行というものである。怒髪天を衝く勢いで。一を聞いて十を知るような賢い男であって初めて学問を授けることができる。一を示したらすぐに三がわかるような気のきいた人間でないと、教育をしてやる価値はない。西に行こうが東に行こうが、赤いと思われようが白いと思われようが、その時その時に自由自在にはたらいていくことができる。殺活自在。相手も自分も殺活自在。与えることも奪うことも自由自在。逆順縦横。不識:本来の面目は不可得、不可思議、不可称量。
  • 廓然無聖:真諦・俗諦の雲もない。第一義もない。当然、第二義、第三義といった分別、対立もない。カラ-ッとして、秋晴れの空のように、雲ひとつない。
  • 維摩経に言う:「道法を捨てずして凡夫の事をあらわす。」
  • 始終戦争の絶えんような国では法は伝わらん。
  • 不立文字、直指人心、見性成仏。
  • 三大阿僧祇劫の難行苦行をしなくてもよろしい。本心が分かればただちに成仏である。達磨の宗旨というものは、そういう心と心がじかにぶつかって行くものだ。他に手段はないのだと分かるならば、仏に縛られることもない。法に縛られることもない。教典に縛られることもない。宗派に縛られることもない。文字、理屈に縛られることもない。学問がなくても、身分がなくても、教養がなくても、だれでも仏になれるというのだから、これぐらい自由なことはない。達磨宗は真に自由を得て、どんな言葉にもついて回らんのである。達磨は空手にして来たって、空手にして人を度する。学人は空手にしてぶつかり、空手にして悟る。悟ったというものさえない。
  • 口に出しては尋ねなかった知らんが、武帝、心には確かにそういう驕りがあったに違いない。
  • 色即是空、空即是色。不二の妙道(聖諦第一義)。真諦門は有にとらわれてはならん。俗諦門は無にとらわれてはならん。聖諦にとらわれたらもはや聖諦ではない。研究をすれば、聖諦第一義まではわかる。だが、廓然無聖はわからん。
  • 精魂:悟りの開けん心。開ければ仏性。
  • 五祖先師、嘗て説く。只だこの廓然無聖、若し人透得せば、帰家穏坐せん。この達磨大師の廓然無聖が本当に分かるならば、長い旅行をしたものが、久しぶりに我が家に帰って、やれやれとアグラをかいて、ゆったりとした気持ちで、お茶を一服飲むようなものだと。所以に道う。一句に参得し透れば、千句万句一時に透ると。古人道う。粉骨砕身も未だ酬ゆるに足らず。一句了然として百億を超ゆと。しかし魏の国では、他に誰も達磨の真意を分かるものはおらなかった。ただ二祖慧可大師の他には。
  • 廓然無聖:カラ-ッと晴れ渡って、仏臭いありがたいものは何もない。そう分かるならば、そこが達磨ではないか。この地上に限りなく清風が吹いておる。見るもの聞くもの、ことごとく達磨だ。一木一草、達磨でないものはない。見渡すかぎり達磨だらけだ。廓然無聖、何も難しいことはない。そのままだ、そのままがそれだ。照顧脚下。めいめいの中に達磨をさがせ。かけひきのない、飾りのない仏性丸出しの言葉で、相手に触れていくのである。ありのままを失わず、どこまでも趙州自らの心境をありのままに吐露されて、相手を接得されるのである。そこが分からんのは相手がまだ至っておらんからだ。相手にとらわれずに自分の本分を少しも失っておらん。趙州の日常底は常に無心であるからそれができる。自由自在に相手を交わして相手を接得してゆく。何も考えなくとも自然は動いていく。それが至道だ。人間も自然の一部だから、ありのままに生きてさえゆけば、それが至道だ。分別をするから分裂する。至道とは分別をせぬことだ。頭を使わんこと。馬鹿になることじゃ。言葉をひねくりまわして何とするか。ありのままだ。目の前にありのままに羅列しておるのが、至道無難である。見たり聞いたりしゃべったり泣いたり笑ったりするが、何もないということである。相手が悟ろうが悟るまいが、そんなことに頓着はせん。思ったとおりにやってしまう。世間の人が何と言おうが、習慣がどうであろうが、古い思想や古い習慣をブチ壊し、思った通りにやってのけるのじゃ。ありのままに、真理を丸出しにしていくのだ。相手をして、常識を外れ、習慣や人情を超えた、論理を離れた世界があることを知らしめてやることを図るのである。論理を超え、判断を超えた境界を向上の事というのである。真に仏心が分かるならば、世間の権威なぞものの数でもない。この天下に頭を下げるものは何もない。
  • 思いやり:「今あそこで苦しんでいるのは他人ではない。私なのだ。」(私は私でありながら相手との区別がなくなってしまう。)
  • 一遇を照らす人、これ国の宝なり(最澄)。
  • 死して亡びざるを寿という(老子)。
  • わしは死神と競走で仕事をする。(大拙)。
  • 挨拶:人の暗い心を明るくし、人間性を目覚ましめる。
  • 聖一国師(京都、東福寺開山 1280年没):経だらには文字にあらず。一切衆生の本心なり。本心を失える人のために、さまざまのたとえをとりて、教えて本心を悟らせしめ、迷いの生死をとどめんがための言なり。本心をさとり根源にかえる人、真実の経をよむなり。文字をまことの経というべからず。愛語とは生涯を通じて光となる言葉。
  • (真面目・不真面目→非真面目 [正・反→合])
  • 仏凡同居:一人一人の人間の中に地獄と仏が同居している。人間は善悪のどちらにもなりうる。煩悩と仏性との反対の価値を塩梅し止揚すること(涅槃究竟)。
  • 煩悩の泥水も厭わずに、清濁を超越、止揚して、人生を豊かにする。
  • 仏教の「すべからず」は必ずしも「するな」ではなく、むしろ自分に向けて、願いと誓いを込めて、「しない」という決意に解する。心経の場合も、「執われるな、執着するな」という命令ではなく、むしろ肩の力を抜いて、「執着なんかしなくてもすむ教え」を身につけることをすすめる。
  • 如是我聞:このように聞こえて参ります、わかります。心に聞こえて参ります。
  • 自我がすっぽり抜けると、不思議と何かが聞こえたり、見えたりしてくる。
  • 法灯明:釈尊は人格宗教になることを極力戒められた。
  • 空の法を依り所とするなら、何ものにも足をひっぱられず、何かにしがみつかなくとも安全に生きてゆける道理です。
  • 「腹が減ったら何を食べてもうまいでしょう。その状態こそ空だ。」(清水公照長老)
  • 縁起や空がわかるということは、おかげ(陰)さまがわかること。
  • 人は一人で、他と無関係で孤立できない。
  • 不幸は一つのメッセージである。すべての苦厄に出会っても、それに悩まされることなく、かえってそれを足場として、起ち上がれる縁ともなる(度一切苦厄)。