ケン・ウィルバーの世界Ⅱ
- 出来事と観測者は切り離しえない。
- 物を何と呼ぼうとそれは物ではない。
- その性質が知る者から区別されない知の様式。
- 突然、直観的に何ものも媒介とせずに到達される。
- 直接的あるいは直観的に知ることは、精神的内容と対象とが同一であることを示す。
- 証明は論理的な証明ではなく、実体験的な事実。
- 世界を一つのまとまった全体として捉える。
- 心が絶対的実在である。
- 観測者が観測されるものである。
- 知るものは知られるもの全てと一つである。
- リアリティは言語によっては伝達されない。
- 知るものは言わず、言うものは知らない(タオイスト)。
- 自分自身でリアリティを発見する。
- タオは物質的存在を超えた何かである。それは言葉によっても沈黙によっても伝えることはできない。
- 個々の心の多様性は見かけだけのものにすぎず、真実は一つの心しか存在しない。
- 話すことによって人は真理に入ることができるが、言語自体は真理ではない。
- 世界は心以外の何ものでもない。全てが心である。心の偽りの投影により、あらゆる現象のいろいろな形が作られる。
- 唯心は理論というより、生き生きとした生きた体験である。
- 心には始まりがなく、不生、不滅である。
- ただ一つの心に目覚めればよい。
- 仏陀は道を示す以外のことはしない。
- 一人の絶対者を様々な形で呼んでいるだけである。
- リアリティそのものに適用できる観念など存在しない。
- 宇宙はメビウスの輪のようにねじれて自らに戻ってくる。
- 弁証法とは情報を得る道ではなく、一つの浄化である。つまり、もっぱら知性を純化するための方法なのである。
- 自らの性質の内なる命令。
- 対象化は全て幻想である。
- 類推的かつ肯定的なアプローチから入り、全知全能の絶対的実在が存在し、その発見が無類の心の平和を授ける。
- 人はそれまで学んだ全てを忘れなければならないときがくる。
- たとえリアリティを表現できなくても、体験はできる。
- 主体と客体とが二つのものでないことを存分に理解した暁には、概念化に戻ってもよい。もはやその報告に欺かれることはない。
- 神の光の中に住む者は、過ぎ去った時も、来るべき時も意識せず、ただ、永遠のみを意識している。
- 自己は今ここにしか存在しない。
- 永遠なる現在に目覚めること。
- 心が永遠であることを自覚することが究極の悟りと呼ばれる。
- 絶対的瞬間の把握の仕方を知ってさえいれば、究極のリアリティは日々の体験の核心に横たわっている。
- 自然発生的な行為のみが過去や未来から自由である。
- 順番に少しずつ取り入れていかなければならない。
- 自然はその存在の全てを同時にもっている。
- この現在の瞬間は全ての瞬間を包括し、そのため、それ自体時間をもたない。よって、この時間のない現在は永遠そのものである。
- 神は今現在、世界と全てのものを創っている。
- 世界を正しく見ること、絶対的主体性を体験すること、それを無限や永遠として知ること。
- 記憶と期待はいずれも現在の事実である。
- 今、この瞬間の意識状態そのものが、常に、究極的なるものと同一である。
- 真の知る者はその知の宇宙と一つである。
- 自分と宇宙が分離した実体ではない。
- あなたは母なる大地に身を投げだし、自分が彼女と一つであり、彼女が自分と一つであることを確信することができる。
- 存在するのは唯心のみである。
- 万物と自己同一化しており、宇宙の基本的エネルギーと一つである。
- 宇宙が心である。
- 時間を超えた現在の中で、自然とともに生きるまでは、人は幸せにもなれなければ強くもなれない。
- 自分自身の一部であるはずの環境。
- 自分自身は愚かな動物的身体から切り離された知的魂である。
- 余分な刺激のない静かな場所で、自分自身に関して形成してきた観念や概念を全て追い払えば、自分で自己の実存のレベルをつきとめることができる。
- 何らかの理由で自分が存在し、この瞬間、生きているという核心的感覚。
- 自分の存在が宇宙の存在と同一であるという閃き。
- 言語の現象は背景の現象であり、話し手はそのことに気づいていないか、せいぜいおぼろげに気づいているに過ぎない。
- ある人物の思考形態は不変の諸法則のパターンによって支配されているが、当人はそれに関して無意識である。
- 現在の瞬間にしかない喜びを、自我は決して満喫できない。
- 特定の無意識はそれぞれ、我々が自分自身から切り離した宇宙の側面を表している。
- 対立するものはことごとく相互に依存しあっており、不可分で非二元的、対立の一致である。
- あるがままの自分が心である。
- 唯心の体験は常に現存する。事実、それは永遠の現在における唯一の体験である。
- 意識的に心として生きること。
- 心であることによって心を知る。他の方法では知りえない。
- 純粋な有機体的意識。内に湧き上がり、原初の二元論を知らず、非時間的なために無限なこの生命エネルギーが、宇宙意識ないし心に全面的に参与している。その自覚が解脱。
- 絶対的な今を知ることで全時間を知り、絶対的なことを知ることで全空間を知る。
- 全ての現象的な顕れとの至高のアイデンティティを発見すること。
- 心のレベルで生起するエネルギーは純粋で形を持たない。
- もしお望みとあれば、歓びと光輝の世界に住まわせること、それが唯一の関心事なのだ。
- そう言った実験が存在し、それをすでになした者が存在する可能性はおそらくあるであろう。
- 日々の日常的な意識それがタオである。
- あらゆる場所、あらゆる物の中に神を見出す(菩薩)。
- 我々は一瞬たりとも道を外れない。外れることができるものは道ではない。
- 神と私は、私が神を知覚する行為の中で一つなのである。
- あなたが自己なのである。あなたはすでに〈それ〉なのだ。この瞬間、到達しうるものは何もないことを確信できれば、あなたはすでに悟りの中にいる。
- 全ての探索は失敗をまぬがれない。
- 完璧な注意と解放の状態。
- 自分の活動が世界の活動である。
- 現在の瞬間にあるのは、絶対的な静けさである。ここには永遠の歓喜がある。
- 真実は身近にある。捜し求める必要はない。真理を捜す者は決してそれを見出すことはない。真理はあるがままの内にある。
- もし自分の背景の全体の意味を探求すれば、その背景から意味が生じ、一挙に真理を発見し、自らの問題を理解する。
- 神あるいは真理は考えることができない。考えられるものなら、それは真理ではない。
- 苦痛にしろ、恐怖にしろ、それを回避することによって解決されない。
- 自分が、苦痛とか恐怖であることを自覚することによって初めて解決される。
- 完全な注意を向けられたものは理解され、解消される。
- 自覚とは、いかなる選択もせず、ただ見つめ、気づくことである。
- 観察することは、そのイメージをもたずに眺めることである。イメージを作り上げるのは不注意である。
- 精神的利他主義は精神的偽善である。
- 「私は誰か」と尋ねることによってのみ心は静まる。
- 公案の瞑想は、公案を分析することではなく、それと完全に一体化することで、謎は自ずから解ける。
- 得られる悟りの深さは探求心の強さに比例する。
- 全ての思考が停止すると、いささかの汚れもない透明で晴れ渡った静穏さを体験する。
- 沈黙は最後の言葉である。
- 張りつめているがリラックスした注意深い状態におく。
- 道と一つになれば好悪の余地はない。