辻邦生の世界

辻邦生著『季節の宴から』より


  • 日本人は「優しさ」に向かって開く花のようだった。
  • 単純に地上にいるということだけで、私達は十分に恵まれている。私達がそう感じられないのはあくまで「自分」に捉われているからではないか。もし我執というものを真に離れることができたら、天地自然は、光とか青空とか雲とか風とか雨とか季節とかという、あり余る美しいもので飾られて見えるのではないか。そしてそのことだけで私達は十分に恵まれているのではないか。
  • 自分を含めた一切を放棄すること。一切の所有を超えること。
  • その事自体に悲劇的相貌のあることを自覚した魂だけが、ファンタジーの求めるものが〈生の喜び〉であることを忘れないだろう。
  • 芸術──いつか不思議と人間の宿命に共感し、心が軽やかに澄んでくるのを感じる。
  • パリのノートルダムの場合もそうであったが、性急にそれをわかろうとする意志を放棄し、自然と対象の美が映ってくるのを待つほかないと思った。事実、そのようにしてしか現れぬ種類の美はあるのである。そういうものの前では、自らの成熟を待つ以外に手段がないように感じた。
  • ある価値基準が揺らいでいるとき、それを内部から支えうるのは、その価値を、時代や環境などの外的条件から超越したものと信じられる力である。
  • それを実現するための沈黙と実践。
  • 自己を正当に扱う態度は、多く、自己の信じる価値がそれを超えたところにある。
  • その基本的価値においてはいかなる傷も受けていないと信じられるとき、人は自己をありのままに取り扱うことができる。
  • それは事に先だって逃げを打つ怯懦な態度ではなく、現実の内部構造を透視することによって、そこでの最も本来的な姿を先取りしようとする姿勢である。
  • 自分に対して無意識、無私な態度。
  • あらゆるものが彼の中でなり響く。
  • 自己を透明にして一切を受容しながら、そこにどうすることもできない自己の調音を響かす。作為の痕跡はまったくなく、ただ自然の経過がそうであるがゆえにそうなった、無垢な純粋な感じ(モーツァルト、シェ-クスピア)。
  • 作品の中に人間の歌を持ち込んだ率直な感性。
  • 人間の真実の一切を見たにちがいない。
  • 透明な悲しみとは何か在るものへの悲しみではない。それは有限な存在が無限の中を走りぬけてゆくときの調音のようなものである。
  • 精神が地上を疾走してゆく。
  • 花が咲き散るように、星が夜空を走るように、そのように人間は地上を過ぎてゆくべきもの。こういう自然な無垢な眼だけが真実の一切を見る。一切を見て、しかもその見たことを明晰に保ちつづけるのだ。
  • 美とは官能を通って精神にゆく道だ。
  • 生きることとは一つの必然を生きること。
  • もともと芸術作品は困難な条件のもとで、それに抵抗し、頑張りながら作られる場合のほうが多い。
  • 〈知ること〉の楽しみは事物そのものの肌に触れる喜びということができる。
  • 小林秀雄「本居宣長」
  • 人生が生きられ、味ははれる私達の経験が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもある。
  • 誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。
  • 読書に習熟するとは、耳を使はずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。文字の扱ひに慣れるのは、黙して自問自答が出来るといふ道を開いていく事だと言へよう。
  • 人が人と心を分かって生きて行かねばならぬ深い理由。
  • 根本には個人の力量を越えた普遍的な生命の流れがあるといふ自覚。
  • 分に過ぎんとしても過ぎる事が出来ず、飛ばんとしても飛ぶ事の出来ぬものの自覚に達することが「あはれを知る事の深さ」であり、「歌の道の味を知る事」である。