クリシュナ・ムルティの世界

クリシュナムルティ著『英知の教育』より

  • 注意は精神集中とは違う。集中しているときには何も見えていない。だが、注意を払っているときには実に多くのものが見えている。
  • 〈見る〉ことそれ自体が変化をひき起こす。
  • 面倒を見る気持ちが愛情の始まりである。
  • 愛情、優しさ、親切心、寛大さ。
  • 愛は憎悪、羨望、野心がないときにのみ存在する。
  • 人が自分自身に無関心なとき、彼は真に自由な存在である。
  • 愛するからこそ君はものごとをする。
  • 愛はその中に優しさ、親切、思いやり、そして美がある感情である。愛には何の野心も嫉妬もない。
  • 他人に対し非常に優しく親切にし、傷つけないこと。人を見つめ、助け、寛大で思いやり深く。
  • 非常に静かな精神、おしゃべりでない精神。
  • 競争をあおる教育や競争を通じての生徒の成長がきわめて破壊的であることはまったく明白だと思われる。
  • 単に技術的に優れた人間ではなく、全体的人間であるべきだということ。
  • 全体的人間とは、内面的理解力をもち、自らの内なる在り方、内なる状態を探求し、吟味することのできる力、さらにそれらを超えていく力をもった人間だというだけでなく、また、外面的にも善き行いを示す人間を意味する。内と外はあいともなわなければならない。
  • 偉大なる社会は必ずしもよい社会ではない。よい社会は秩序を含んでいる。人間にとって秩序とは自分自身の内なる秩序を意味する。
  • 英知の本質は鋭敏な感受性である。生徒は自由でなければならない。さもなければ感受性豊かではありえない。伸び伸びと学び楽しむ、それが自由である。自由は秩序を含蓄している。自由が必要不可欠であり、かつ自由とは好き放題にすることではない。生徒は自由でかつ規律正しくなければならない。
  • 皆さんの応じ方が意識的であろうが無意識的であろうが、その結果は心に刻まれる。
  • 生は破壊であり愛であり創造である。
  • 知識は人生の目的ではない。木々や美しいものに感動し、愛するとは何か、親切とは寛容とは何かを知ることが必要である。
  • 調和と自由と愛情。
  • 教えと学びは同じこと。
  • 感情と行動は二つの別々のものではない。彼の内部に非難や反発心を起こさないよう生徒がごくはっきりと物事を見るよう助けること、感じ取ることが急務。無理に納得させようとしたり、感化を及ぼそうとしたり、是非の判断や信念を押しつけようとしたりしては駄目である。ひたすらに事実を示すようにすることである。精神が思考を空しくしないかぎり事実を見ることはできない。
  • 動機無しに何かをすることは好きでそれをすることであり、その過程においては思考は機械的ではない。そのとき脳は不断の学びの状態にあり、かたくなでもなく、知識から知識へ移ることもしない。それは事実から事実へと動く精神である。
  • 教える者と教えられる者が共に学びかつ教える情熱を持つとき、そこに注意が起こる。教室の中にある感情、ある雰囲気を生み出す。
  • 本質的な事実はなく、あるのはたんなる事実である。
  • どんな種類の理想も危険だ。理想は事実を見ることを妨げる。
  • 自分は自由なのだ。但し何でも好き放題にするのではなく、ただ自由なのだ。
  • もし生徒が教師に本当に面倒を見てくれている、思いやりがある、完全に打ち解けていられる、恐がらなくてもいいのだと感じれば、彼は教師を敬い、言うことを聞く。完全な信頼。
  • 生徒が恐れずにいられるよう交流のドアを開き完全に気楽で安心していられる状態。
  • 生徒は彼の全人生が達成、成功に合わせられ、そして恐怖と競争の背景をそっくり負っている。
  • 教えというものは創造的なものである。学科に興味を持たせること。
  • 何の恐怖もないときにのみ学ぶことができる。
  • 生徒は教師を信頼すると学ぶようになる。生徒が教師を信頼するとき、生徒は教師の望むように学び始める。関係を築くこと。
  • 精神はすなわち言葉である。
  • 健やかな身体と良い精神をもち、自然を享受し、不幸や愛や悲しみの全体を見、世界の美しさを見ることができる人間として生きる。
  • 英知:単に論理的に思考するだけでなく、むしろ物事の真偽を知覚し、理解する力。
  • 見るためには、身体全体が静かでくつろいでおり、鋭敏でなければならない。
  • 思考が死ぬためにはそれは花を咲かせ実を結ばなければならない。
  • 言葉によらない意思疎通、自由と秩序の中での開花。
  • 懲罰やおだては何ものも生み出さない。観念からではなくその自由から語りかける。教師として自由で規律正しければ、言葉の上だけでなく、言外でもこの真実を伝えつつある。生徒はすぐにそれに気付く。