このあたりから始めないか
2013年07月31日
- 日本は今、歴史的にどのような状況にあるのだろうか。エヴァンゲリオンでは人類補完計画というのが背景にあった。それはそのまま、あるグループの世界人口2億人計画だね。その背景の思想では愛=神とか道徳とかモラルとか幸せは否定されている。かつて封建制は土地を媒体とする農民支配だった。今はどうだろう。お金を媒体とする労働者支配といえるだろうか。封建制は絶対専制主義に至って滅んだ。そしてブルジョア支配となった。それは、カルバンに発する400年来のことである。恐竜は恐竜で幸せになろうとした。しかし、チラノザウルスが現れて滅んだ。原因は隕石の落下による気象変動だったろうか。それはどうでもいい。その頃、既に、ネズミがいた。そしてほ乳類の時代となった。幸せになるために私たちは生まれている。何度も生まれ変わっている。さてグローバル化は世界統一政府を目指しているのだろうか。しかし、その背景には人間の幸せは否定されている。彼らの思いは、自分たちによる支配であり、他の人間はどこまでも被支配者である。自然を破壊しても顧みない。破壊と殺戮こそ彼らにとって価値となっているのではないか。済州島での隆起もあった。28万人いた人口が3万数千人となった。住民の多くは在日となっている。それで、在日韓国人に対する選挙権が浮上したこともあった。そして済州島の隆起に対しては、3万から6万人が処刑された。朝鮮戦争の頃である。歴史を直視しない民族は滅びるという横断幕がサッカーの国際試合で掲げられたこともあった。そのまま返上しよう。都合によっては、強制連行を言う。創価学会も統一教会も背後に何があるのだろう。さらにその背後に何があるのだろう。いいではないか。所詮、神とサタンの永遠の課題である。幸せを肯定するのであるか。否定するのであるか。知らずに支配されている。だがね、フランス革命もあった。根絶やしはない。良くも悪くも、そういう時代に生まれている。その中で、犬死にしないことだ。一隅を照らす。それでいい。衆生本来仏なりである。蓮華の前に化生する。本来日本はそれをかつて選んだ。しかし、いつのまにか見失われている。身心清浄及び正直こそ身を助ける。それが本来日本の大和魂である。一芸は身を救うに等しい。いつのまにか愚かで殺伐とした日本社会となった。若者及び子供たちが勘違いしている。その責任は大人にある。思い出そうではないか。見直そうではないか。このままでいいのかどうか。本来日本の精神は何だったのか。道元においては貧学道だった。それでいいのである。愛と平和を隠れ蓑に世界支配を試みるのであるか。本当の幸せを求めるのであるか。何のために生まれていたのだったか。子供たちの未来の夢は、殺戮なくして平和を勝ち取ることである。市民革命も流血の革命から名誉革命となったように。人類が滅んでも地球は痛くもかゆくもない。自然は征服できない。私たち人間は自然の一部である。自然と共に生きて幸せであることを本来日本は知っていた。再び、自然に帰ろう。見える世界だけでこの世が出来ているのではない。神仏は実在する。神仏の求めていたのは何だったのか。もう一度、考えてみないか。サタンに屈してはならない。その必要はない。本当に愛を信じるなら、自然が証明する。死んでも死なない魂である。この世は過去からの魂の遍歴の一コマでしかない。そして夢の実現過程である。戦争ではない。殺戮でもない。自然破壊ではない。私たちは、幸せになるために生まれている。野蛮な潮流から脱しよう。魂と自然は連動している。猛暑及びゲリラ豪雨は何故であるか。私たちの魂の周波数状態の反射ではないのか。何がはびこったかとするところである。おだやかでいい。やさしさでいい。みんなそれを求めている。しかしあらゆるメディアがイライラしているよね。このあたりから、始めないか。だれもが幸せになるために。犠牲の上の繁栄は滅びる。