教育理念の基の一つとして
2013年11月02日
- 子供たちは子供であることを以て素直であり、従順であり、正直であり、正義感が強い。時に悪いことをする。それが悪いということは認識している。それをそのまま受容してほしいのだった。そしてしかってほしいのだった。時に理不尽な場合には当然納得できない。それは主観的な思いと客観的な事実とがくいちがって生じているのであるが、子供たちはそれに気づけない。しかる側はそれに配慮することなく、悪いとしてしかるのだった。どうしてそのようなことになったのであるか。順を追って丁寧に一緒に考えていけば、どのような子供たちもそれを理解する。ここに人間として生まれた人間としての所以があるのだった。そうであるのに大人はそれを当然のこととして悪いことは悪いとする。いつか子供たちは、見捨てられたと思う。あるいは裏切られたと思う。その必要はないのであるのに。さてしかられているからには悪いからだった。それにも原因があるのだった。事実を正しく確認して、悪いとわかったなら、その原因を消しておかねばならない。それがあやまるということだった。あやまればゆるしてもらえるからである。子供たちはこうした意義もわからないことが多い。だから、こうしたことを一つひとつ教えなければならない。そしてその上で段階を踏んであやまることができるのだった。進んで、もうしませんとも言えるのだった。理解があってのことである。納得してのことである。これが教育だった。何故悪いのか。それもわからせる必要がある。彼らはそれさえわからない場合がある。それほどまでに、彼らはそうした力を失っている。例えば自分のしたことと思いを文字で書くように言うと、書かないと言う。それは反抗であるように見える。そうではないのだった。彼らは文字で書くことがきわめて苦手なのである。それで代筆してあげるから言ってごらん、と言うと素直に話し始める。これが子供である。どこかで私たち大人が勘違いしているのである。それほどまでに発達的な問題を抱えている子が多い。それは何を意味していたのだったろうか。生命体としての実験であるのかも知れないのだった。どのようにして幸せになるのであったのか。彼らこそ未来に生き残るのであるのだろうか。時代は進化して、そうした問題を抱えていたとしても彼らのやさしさを以て易易と生きてゆけるのである。蓄積された人類の英知と技術を適切に使うことを以て。ほとんどの問題行動と不登校の原因がこのわからないままに勉強ができないことを以て意識的に見限られ、放置されていたということにあるのではないだろうか。彼らは自分についての理解ができないままに苦しみ、その果てに自暴自棄となり、それでも自らの存在を保つために問題行動に走ったり、閉じこもったりしていたのではないだろうか。このあたりのメカニズムと原因、そしてそれを解決する考え方と方法を具体的にはっきりとそれぞれの段階に応じて理解させることができたら、ほとんどの問題を解決することができるのではないだろうかと思われる。いつか大人は彼らを意識の上で放置していた。彼らの本当の気持ちを理解していなかった。育児放棄は虐待である。こうした実体がある。それにいつまでも気づけなかった。そうした時代なのである。子供はいたって素直である。従順である。正直である。正義感が強い。彼らを追い込んでいたのは教師を含む大人だった。その意味で私たちは無知だったのではないだろうか。そうした配慮がなかった。考えようともしなかった。そして悪いことは悪いとしてしかっていたのだった。そうであるならば、ユニバーサルデザインとしての教育方法が有効である。ある非行少年が言った。一から教えろや。わからんじゃないか。これが彼らの本音であろう。わからないまま放置されるとどうなるのだったか。彼らを悪いとして私たちは彼らを意識の上で見限っていたのではなかったか。彼らはわかりたいと思っている。わからせてくれる教師の言うことは素直に聞く。大反省の頃だね。学校の勉強はできなくても易易と生きてゆける時代である。それほど時代は豊かになっているからである。子供たちにこの話をすると安心する事実がある。だけど、授業の迷惑になることは別論で悪い。新たな困苦の原因となる。この論理も理解することができれば、彼らはもうしませんと言えるようになる。そして子供本来のやさしさを取り戻し、おだやかになる。これを新しい時代のパラダイムの中の学校教育理念の基の一つとして考えてはいかがだろうか。勉強ができる人はすればいい。当然のことである。スポーツと同じである。音楽ができれば音楽をすればいい。ダンスでもいい。何か一つできればいいのだった。できない人がいる。できる人もいる。それでいいのだった。あえて言う。学校の勉強はできなくてもいいのである。だからといって、授業の中で付和雷同して私語したり、立ち歩いて学校及び他の子供たちの迷惑となることをするのは別論である。わかろうと努力してわからないのはそれでいいのだった。その意味で黙って坐っているだけでいい。他に迷惑をかけないことだ。学校に来るだけで意味がある。学校で学ぶのは教育課程としての学科の勉強だけではない。社会に出て、みんなとうまくやってゆける力を身につけることが第一の目的である。それが生徒指導である。あらゆる困苦に原因がある。それを取り除いて問題は解決する。それには方法がある。正しい理念が必要である。