究極の目的
2012年10月07日
目指すべきは何だったのか。学力であるか、学歴であるか、金銭であるか。地位であるか、名誉であるか。それらが自ずからついてくる究極の目的は何だったのか。現代学校教育に於いては、生きる力からさらに真実真理を希求する人格の育成とある。それは、何だったのだろうか。徳であるか。それは、人間性だった。何を以て人間性とするのであるか。本能のままに欲望を追求する動物性ではない。堕落することが大人になることではなかった。しかし、往々にしてそれが人間性だと思っている。芸能界などがそれである。Aと非Aがあるとする。それは対立概念であり、それぞれ他を排斥しようとする。権力闘争などがそれである。もう一つ高い次元がある。そこより見れば、両者は互いに対立していながら成立する。それが仏教だった。お釈迦様が、極楽の池から地獄を見るようなものである。地獄は地獄で原因に対する当然の結果だった。悪人正機説も出て来る所以である。仏教はそれに目覚めさせる。そして初めて自由となる。何者にも制約されない。時間も空間も超越する。そしてすべて一つであったことに気づく。それが永遠の命であり、普遍の愛だった。本来私たちは永遠の命の一齣だった。さすれば、生死を克服する。生も死も、大海の波に過ぎない。大海は普遍の命だった。これが法身であり、仏の御命である。私たちは永遠である。ここに絶大の自信となる。地獄に赴くのであるか。極楽を現成するのであるか。自分次第である。お釈迦様は悟りを開かれて、それに気づいた。それを摩尼珠と言って良い。それを磨く。見極める。それが究極の目的である。これをしない限り、何をしても不幸に赴く。白隠禅師の隻手の音である。そして、さらにお釈迦様が発見されたのは、だれもがこの仏性を具有していることだった。それは何か特別なものではない。心である。それが理想としての人格である。本来日本はそれを知っていた。それを目指していた。つまり、生命の進化傾向であった。本来日本に帰るとは、この意味である。