私の文章修行

平成24年10月8日

 小学校四年生の時、近くの測候所に課外活動として見学にでかけた。その時のことを作文することになった。原稿用紙に2枚程度でよかった。しかし11枚書いた。担任の先生は随分と驚かれていた。大学の頃には、1週間毎晩徹夜して、ある人に270枚の手紙を書いた。
 
 広島県立呉三津田高等学校に通っていた。中学3年2学期末試験では9教科平均93.5点をマークした。その時の成績は9教科中8教科が10だった。10でなかったのは国語だった。中学まではほとんど本を読んでいなかったからだった。テニスに明け暮れていた。高校受験は三津田高校一本だった。高校生になって、いつか悩みの淵に沈んだ。学校の勉強をすっかりしなくなっていた。本ばかり読んでいた。そして朝まで起きていて、友達に毎晩、便箋11枚の手紙を書いていた。
 
 夏休みの宿題に読書感想文があった。前日に作ったメモを持って登校し、教室の片隅で仕上げた。それが入選した。それは旺文社全国読書感想文コンクールだった。三津田高校には、1200人の生徒が在籍していた。その中で、入選したのは二人だけだった。国語の先生は奈良女子大学を卒業されていた。講評では、読書感想文の要件をすべて満たしていたとのことだった。寒い冬、校庭の鉄棒のところで口説かれた。一緒に文芸をやりましょう、と。
 
 高校三年生の頃には、『定本種田山頭火句集』をいつも携帯していた。そして十九の春に悲しい出来事があった。この世での解決はない、と思われるほどのことだった。それを乗り越えることが出来るとは思わなかった(苦節三十有余年を要する孤独な月の沙漠の旅だった)。人生はそこで終わっていた。その後、何をしても駄目だった。大学は何とか二浪してある大学の法学部を卒業した(この時も受験はその大学一本だった。社会科の受験科目は世界史と日本史だった)。就職も何とかしたのではあったが、十九の春がことごとく邪魔をした。
 
 そして本だけは読んでいた。ある時、短歌に興味を持っていくつか作った。たまたま、角川書店の『角川短歌』がキャンペーンをしていた。六ヶ月にわたる応募期間のあるものだった。それに応募すると、入選した。わずか三ヶ月の取り組みの中でのことだった。活字になったものを見ると、何故か私のところだけ均等割り付けで上下がそろっていた。
 
 十九の春で埋没を余儀なくされた。しかし、何時か取り返さなければならなかった。その鏑矢となったのが2006年1月1日の短歌だった。そしてブログ及びホームページで書き綴った。不思議な体験もいくつか織り込んだ。風神雷神、草薙剣、金剛杵、八咫烏、大風制御、インターネットとNHK-FM放送によるイーブンスというロックバンドとのライブチャット平清盛『日招き岩』で猫に案内され一緒に遊んだこと、大鏡及び浄瑠璃の秘密等、卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本に関する筆舌すれば不遜、あまりにも特異稀なる人生があった。それがそのまま私の文章修行だった。祖先の総体としての黄泉が受容祝福守護し、慎重に導いていた。法華経に曰く、すべて自分の中で起きる、あるいは、余人の見ざるところを見る。すべて自分だった。私だったのである。それで良いとやっと思えるようになった。